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意識の使い方と使い道 / 比較の感覚を剥がす

「たのしいほうへ」と昨日那覇でばったりお会いした尊敬しているひとが言った。

彼と話しているとセドナに行った時に大地から感じたものと似た類のエネルギーを感じる。

たのしいほうへ。

同じような言葉をそれぞれ素晴らしく的確なタイミングで、それもやはりわたしにとって大切で尊敬してやまないひとたちから告げられる。

思い煩うことなく愉しく生きよ。

たのしく生きよう!

積もり積もって、心の中で結晶のようになっていくそれ。美しいそれ。

どのひとからも向けられる感情はまっすぐな愛に溢れて、わたしはその眼差しにあたためられる。

昨日の夜は寂しかった。寂しさは厄介でお風呂に入っても身体が凍えたまま。じぶんでじぶんをあたためる術を身に付けたいと思うのに、できるようになるのは忙しさで目を背けることばかり。

みんなどうやって大人になったんだろう。

そう思いながら周囲を見渡すと、先生がいる。

5年後の未来からこちら側へ橋をかけるように石を積みなさい。

先生がそう言って、わたしの目の奥の奥へ入ってくる。目を合わせることは一種のまじないだ。

祝いにもなるそれをわたしはまだ上手に使いこなせていない。

向けられる感情や視線からは上手に身を守れるようになった。

それはわたしがわたしを傷つけない限り、誰もわたしを傷つけられないと知ったからなんだと思う。

若さに価値を置くひとはじぶんよりも若いひとに脅かされ、攻撃をしてしまう。

美しさに価値を置くひとはじぶんよりも美しいひとに、お金に価値を置くひとはじぶんよりも多く持つひとに。

明るさに、聡明さに、人気に、頭の良さに、じぶんにとって「価値」とするそれぞれのものに反応するようにひとはひとへ意識を放つ。

意識は明るい方へも暗い方へも同じように放つことができる、そして相手が受け取らなければそれはじぶんへと大きくカーブを描いて帰ってくる。

じぶんの内側にある泉のような場所、なにかがこんこんと湧きあがってくる場所、そこにしか本当のことはなく、そこに視線を合わせ続けられれば、刷り込まれインストールしてしまった架空のなにかに価値を置くこともない。

思い出してほしい、思い出したい。

なにかの価値に重きを置くこと、またそれ自体を価値とみなすことは、多くは広告によって始まったもの。比較の意識は集団に所属”させられた”なかで身につけたもの。

思い出したい、思い出して欲しい。

昨日急にじぶんに浮かんだ映像は3歳の頃のわたしだった。カーテンの裏でくすくすと嬉しそうに妹と隠れ、姉と木に登るわたしだった。

こみ上げてくる気持ちに身を任せ、過去を旅する。

比較の感覚を覚える前、わたしはとっても幸せだった。その裏で誰かは悲しい気持ちをしていたかもしれない、気づけはしなかった、その悲しい出来事も紐解いていけば、完璧でありたいと願い狂ってしまったひとのなかになる比較の感覚なのだ。

これを剥がし、じぶんの意識がどのように動いているかに明晰であれば、物事はもっとシンプルに加速し力を増す。

比較の意識がなければ不足の感覚は生まれず、不足の感覚がなければ奪わずにいられる。

奪う、それは連鎖するが何も生み出さない。誰かと向かい合ったときにその口元から気を吸い取らずに生きていける。もっと欲しいとその身体にじぶんの欲望をまとわせずに済む。

比較の意識を剥がし、次の場所へ。きっともっといい場所を生み出せる。そう信じながら、また仕事のなかに戻る。

文字にすることは息継ぎのようだと思う。せわしなくすぎていく時間のなかで、唯一ホッとしているような気がするから。

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