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働くこと

働くのはたのしい。

じぶんが介在したことで喜んでもらえると、むずむずとしあわせが込み上げてくる。

子どもの頃、お手伝いをしたくてたまらなかったその感覚によく似ている。

同時にある欲求は役に立ちたいという気持ちよりも、やってみたいという気持ち。やってみてこうなっていたのかと知る面白さ。

うまくいかないな、こうしようああしよう。

そういう試行錯誤は、小学生の頃によく登ったある木を思い出させる。

落ちると擦りむいて痛いのに、あそこのコブに足をかけてみようか、あの節を握ってみようか、頭で描いた感触と身体に与えられる刺激との差分に驚き、また捉え直し、もう一度登っては落ちる。

人が見ていると恥ずかしいので、3人や2人でゆっくり登るのがとても好きだった。

仕事にはそういう奉仕の欲求と好奇心、そしてもうひとつ所属の欲求があるのだと思う。

こんな素敵な大人の先輩と一緒にいたいという類の憧れと呼ばれるそれもあれば、このひとと同じ未来を見ていたいといった高次なそれもある。

人間のなかにはいつだってたくさんの人格が存在していて、それらは必ずしも同じ方向を向いていない。

それは細胞それぞれがそれぞれのはたらきを誰に命じられるわけでもなく淡々とこなしている様と似ている。

細胞ひとつひとつによってできている、細胞よりちょっと進化した存在のミトコンドリアだってあれだけちょこまか動き回るのだから、人間を構成しているだけの細胞たちに思いを馳せると、そりゃ合理的にもなりきれんよなとじぶんを擁護する。

だからこそひとつひとつじぶんで決めていかなければならないのだ。

たえず連続している時間のなかで、まるで現実というものがぶつ切りに存在しているかのような顔で、今この瞬間におけるじぶんとして答えを出し続ける。

変化して当たり前。

しかし一方で、芯を失ってしまうことの辛さをわたしはよく知っている。

肌をよくよく拡大してみると穴だらけのべろっとしたものであることがよくわかる、つまり境界なんてものはあるようでないのだ。わたしたちはいつも空間を通してなにかを共有し混ざり合いながら暮らしている。

外側は混ざりやすい、色はどんどん変わる。

でも中心は違う、いちばん真ん中、からだの真ん中にあるスペースはひとりひとり、そのひとだけのもの。

そしてそれはすべてのひとと繋がっている。

潜り切らないといけない、他の誰かの言葉で喋らないように、重要でないことで頭を覆わないように。

働くことを超えて働けないか、今の枠組みを超えて遠くは行けないか。みんなが幸せなまま発展していくことはできないか。

行動を伴わない理想主義ほど意味のないものはない、ひとつひとつ形にしなくては。

そのヒントは問いかけにあるんだろう。

対峙する相手のなかに答えは必ずある。

大切なのは邪魔しないことだ。そのひとがのびのびと創造性をはたらかせることのできるポジションを用意し、最適な形でそれが周囲へシェアされるように企画を練る。

信じることもせずに信頼してしまうことだ、目の前のひとにはそれができると。

今迷っていること、今悔やんでいること、必ず全てに意味がある。きっと、もっとみんなと分かち合えるはず。

今日はもうくたくた。眠ろう。

いっぱい働くのはなんのため?

認められず疎まれてだれかを傷つけてまでやらなければならないことなんてあるだろうか。

いっぱい働くのは、なんでだろう。

働くこと自体が瞑想的な意味を持つのだとしたら、環境を整えることだ。

働くこと自体が欲求を満たすためにあるのなら、言語化をしよう。

わたしは今どうして一体こんなにたくさん働いたのか。まだまだじぶんのことなのに、わからないことばっかり!

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コザはブーゲンビリアがたいへん美しい時期です。