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わかれるということ

朝起きて、やっぱり書き留めておこうと思って書き出している。

今感じていること、明日には感じられなくなっているはずだから。昨日感じていたこと、やっぱり同じようにはもう感じられないから。

書いてしまえばエピソードになってしまう。話してしまえばフィクションになってしまう。書くことも話すことも、外に出す行為はぜんぶ、その先に相手がいる。相手がいることは、すこしだけ期待をはらむ。期待は相手をコントロールしたいという欲求をすこしだけ含む。

なぜ書くのか、なぜ話すのか。

幼稚な気持ちで書くのなら、書かないほうがいい。伝えないほうがいい。

幼稚な気持ち、それは感情を揺さぶることで相手をコントロールしようと、じぶんの期待するものを収穫しようとする気持ち。

今書くのは、それじゃないだろうか、いつもいつも、どんなときも、メッセージを送るときもラインを送るときも電話で話しているときも、今だって、いつもいつも気にしている。

わたしのなかにはそういう類の未熟さがのこっていることを、わたしはよく知っている。

人間として

生き物、特に人間は複層的なうえに立体的な存在だ。

機能と目的がシンプルに定義されている無機物と、それ自体が変容し続ける有機物とはやっぱり存在の意味合いが違う。

わたしは人間で、わたしが接しているひとたちも人間だ。

人間は複層的で立体的な生き物だ。

そのひとのなにが引き出されるかは、もともとこちら側が持っている要素によって変化する。

いい質問がなければいい答えは引き出せず、じぶんのなかに悪意があれば相手のなかの悪意を強めてしまう。

わたしたちは発信機と受信機を持っている。互いに反応を繰り返しながら関係を紡いでいる。

同時に世界はどこまでいってもひとつの宇宙のなかにあるというのも真理のひとつだと思う。

粒子で構成された全ては、「拡大」「進化」という宇宙の基本的な、根本的な原理のうえに成り立ち、その姿を適切な形へと変えていく。

風、恩師

7月の頭に恩師が亡くなった。

恩師がわたしにとってどんな存在だったか、わたしはそれを大勢のひとにシェアする術を持たない。

東京の家族をじぶんでなくして、もう一度愛知で家族になり、沖縄で一から新しい家族をつくっていった。

その道のりのなかでの、恩師との出会いの意味、恩師がわたしにしてくれたことの意味、わたしは彼を失ったことの痛みを誰とも分かち合えなかった。

ただ感謝の気持ちを葬儀場で彼のパートナーに伝えたとき、わたしのなかでなにかが終わり、またはじまり、お盆の最後の日、吹き抜けていった風のなかに彼を感じ、ようやくその痛みがじぶんの体と和解したことを感じた。

彼はわたしに言った。「あなたはどうしてひとと違うのか」と。

そしてわたしは彼にはじめて沖縄にくるまでのじぶんの選択や結果を話した。
そのときに彼は「ああ、だからこんなに素敵なあなたになったのか」と腑に落ちましたと微笑んだ。

わたしは何よりもその言葉に救われて、でも、その救われた気持ちをどう表したらいいかわからず、ただただ泣いているじぶんを眺めていた。

祖母、分かれ

昨日の朝、母方の祖母が亡くなった。

文字で打っただけでまだ気持ちが波立つ。書いてしまえばエピソードになる、エピソードとはフィクションだ。

死は別れではない、粒子の感覚を持って世の中をながめているとそれを実感する。

それでも死は別れだ、身体を持たないことは個別の存在としていられないことを示す。

一体になってしまったとき、身体という境界を失ったとき、それを受け入れるまでの過程はいつだってパワフルだ。

生きている。

わたしはわたしとして生きている。

身体を持って、心を揺らして、それを表現し、分かち合い、生きている。

わたしは死ぬ、その日を知らないまま、わたしは生きている。

一体である感覚と、個体である感覚。

なぜ両方が必要なのか。

ひとつではないと仮定すれば

それはきっと、surpriseだと思う。

一体であるときそこには常にゆるしがあり目覚めがある。

相手が放つ言葉から音として持つ形を受け取るのではなく、その言葉のエネルギーを受け取る。それをそのまま受け取り、わたしの身体を介して、より増強されたそれを相手に返す。

わたしたちは受信機であり発信機である。

個体だからできる、それは一体であるときは叶わない。個体であるとき、この境界を出るまではわたしの内側はあなたに知らされない。

わたしがどんな思いでいるか、わたしがなぜそう思うのか、わたしは一所懸命に言葉を探し、あなたと分かち合うために目の奥を見つめ、あなたに伝えたくて身体いっぱい表現をする。

そうしてようやく心が伝わったとき、わたしのエネルギーはそれ以前と比ではないほどに大きくあたたかく広がっていく。

宇宙の原理原則は「拡大」なのだと思う。追突と消滅を原子レベルで繰り返し、その差分から生まれるエネルギーで前進していく。

すべては同じように形を保ち、わたしたちはわたしたちの間でそれを再現しながら旅を続けている。

どの方向に進んでいるのかも、答え合わせすらできないまま、知覚をゆるされ表現をゆるされながら、いつ終わるかわからない日々を重ねている。

あらわすということ

書いてしまえばフィクションになる。エピソードにしてしまえば思い出は消費されていく、関係は消費されていく。それでも、書く前にはなかったスペースが、書いた後には生まれる。書いたものを通して、近しいひとたちとの交流が生まれる。

表現することをじぶんにゆるすことは、時折ひどく困難だ。言葉という形でも、表情でも、踊りでも、信号を外に発することは、その瞬間に受け取られることが発生する行為だからだ。

それでも、一般的には意味がないとしても、それが予想もし得ない作用をもたらすとしても、わたしはわたしの外にこれを出さなければ生きていけない。

生きている、個体として生きている。分かち合うこともままならず、今日も生きていく。

一瞬でも重なるために、一瞬でも分かち合うために、そこにほんとうのことを探して、今日も、明日も、明後日も。

失ったという感覚とともに

なにも失ってなどいない、わたしたちは最初からひとつなのだから。それでも痛みを覚えるのは、変容をゆるしたいと願うからだ。
じぶんが前に進むことをじぶんにゆるすように、あなたが変わっていくことをわたしはわたしのために拒みたいじぶんの幼さを断ち、前に進まないといけない。

個体としてある意味、複層的で立体的な存在として生きる意味。

それは共振と増幅を繰り返し、拡大していくためのエネルギーを生むというとこと。それは接する相手のよりよいものを、それは拡大の先にある未来の色合いを美しく鮮やかなものにするために、よりよいものを増幅できる装置であること。

そのために共振できる要素をじぶんのなかにいくつも持ち磨き上げていくこと。出会えたことに、ご縁をいただいたことに心から深く感謝をして、もう一度はじめようと思っている。

もう一度、日々の仕事のなかに戻り、そのなかにほんとうのことを探しながら、なにを受け取り、また放つかを選択しながら。

生きている。

いつ死ぬかもわからないまま生きているということ、それを抱いて、ちゃんと歩いていく。

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ありがとうぜんぶに。