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失う

大変なときに遅くまでごめんなさいと言ったわたしに、しっかり目を合わせながら「いいえ、むしろ嬉しいんです。外で仕事をしていた時間の様子を知れるから。」とおっしゃった。

まだ気持ちを消化できていない、短期間にいろんなことが起きすぎて、なにもかもついていかなくて昨日から頭が割れそうに痛い。

それでも、そのなかでふたつはっきりとわかったことを言語化して身体の外側に出してしまいたくてこれを書いている。

ひとつめは、見たままを、聞いたまま、感じたままを信じると決めたということ。

生まれてから命を終えるまで、そのひとのすべてを理解できることは一瞬たりともない。目の前に確かにいて、何度も感情を露わにしながら議論を重ねて、言葉を尽くして、身体のかたちを覚えても、そのひとのことをすべて知ることはこの世にいる限りあり得ない。

どれだけ愛して愛されていても、生まれてくる前のスープのような分離のない状態に比べ、生まれ落ちたあとの個体として境目を持つ一時的な状態では、おそらく目を覚ましている間ずっと、じぶん以外のなにかを理解しきるという状態は生まれない。

目を合わせるとよくわかる、手を重ねてもわからないことが強いリズムで伝わってくる。そのひとのなかに確かに空間があり、そこは非常に広く深く、内包している世界はひとりひとり異なり等しく素晴らしいということが、目を合わせるとよくわかる。

受け入れるか拒絶をするか、その2択しかない。もちろん適切な距離を取るというようなグラデーションはのこされているけれども、生物的な判断でも、思考的な判断でも、どちらにせよ大まかにはその2択に集約される。

愛している、何度も口にする、尊敬する、好きだと思う、それを伝える先の相手の形を、それを伝えることを通して実は潜在的に造形し境界を設定していたと思い知るのは、相手がその形から大きく逸脱していたことを知らされるときだ。

冒頭のようなポジティブな逸脱もあるのと同じようにネガティブな逸脱もある。しかしそのどちらも「じぶんにとって」ネガティブかポジティブかというだけのこと。

目が覚めている間できるのは、受け入れ続けることだけ。選ぶことだけ。距離を置くことは悪いことではない、お互いにとって最適な関係がそこにあることのほうが重要。

そしてこの考え事と同じ系列に存在するのが、「わたしの感覚はわたしだけのもの」ということだ。

身体があることと、身体がないこと。

その大きな違いは、別の個体としてコミュニケーションがとれる、つまり思いや言葉や知識、視線の交換ができるかできないかにある。

確かに失ってしまったはずなのに、わたしは依然内側で声を再生し、彼がなんと答えるかを予想することができる。失ってはじめて聞こえた言葉もあった。

それでも、それはわたしの内側で起きていること、境目の内側で起きるそれは、現実とも妄想とも判断することのできない曖昧なもの。

しかしそれもまた、じぶんにとって納得のできるものであれば、わたしにとってはひとつのゴールとなる。

誰も知っている人のいなかったこの場所に、8年前、なにがあっても助けて面倒をみてくれるひとたちと出会わせてくれたひと、期待に応えられず思うような結果は出せなかったのに繰り返し向き合って直接指導をしてくれたひと、そして何より、わたしらしさを初めて口に出して褒めてくれたのは先生だった。

それまでの情けない人生を聞いたうえで、先生が言った一言をわたしはなぜかずっと忘れていて、あの日写真と向き合っているとき突然それを聞いた。

他のひとにエピソードとしてシェアをしても、癒されることなどない、存在はそれぞれにそれぞれもっとグロテスクだ、それを超えて在り続けるからこそ、内包しながら立ち続けるからこそ生きていくことは肯定され、美しささえ感じる。

大切にしてよいのだと思った。

じぶんのなかにある世界を、大切にしたいと思った、同じように広がっているであろう他のひとのそれを。

なにもコントロールしたくない、それぞれに自由であることが心地よい。それを信じたい。

すべてのひとがすべてにおいて自由な状態はひどいと耳元で聞こえた声に、わたしは心のなかで否と言った。

そんなことはない。人間はもっといいものだ。個体としてあるうちは個体をたのしまなくては。わたしはもっとわたしの感じていることを大切にしていい、それは誰かを傷つけることにはならない。

繰り返し開いた聖書のなかに書かれていた言葉のほとんどは忘れてしまったけれど、ふたつだけ、覚えている。

「はじめに言葉があった」

そして「真理はひとを自由にする」

ふたつともその通りだと思う。仕事を通してどのように表現を重ねるか、わたしは頑張り方を変えなければならない。

生きている時間は短い、思っているよりもずっと短い。もっとたくさんのものを見たい、食べたい、感じたい、着てみたい、歩きたい。

久しぶりに聞いた先生の声、もう聞けないのは悲しい、とても悲しい。

これから何度もこの瞬間は訪れる。

個体として分かれているだけで、潜在的には意識を共有したひとつの群であると、その度痛烈に実感するのかもしれない。

なにも失っていない。最初から、なにも。