NOW 500→1000

気持ちを言葉にすることは

久しぶりにじぶんの気持ちを書き留めておこうと思い、それは少し大切にしたいと思ってあと少しで終わる1000記事までのひとつの記事として。

お風呂に浸かりながら書いている。

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書かなかった1ヶ月

わたしは、いや、どのひとも、わたしの好きなあのひとも日々たくさんのことを感じて考えて思って生きている。

今までは息を吸って吐くのと同じ感覚で、五月雨にそれらを書き出してフェイスブックに投稿したり、ときどき「えいや!」とブログにまとめたりしてきた。

1ヶ月近くそれをしなかったのは、久しぶりのことだった。

書き出していた日々と、しなかった日々。

そのなかでひとつわかったことがあった。

言語化をすることで

毎日同じ日は二度となく、風や湿気の感じ、起きたときの心地や、目の前のひとから受け取るものや目の前のひとへ放つもの、飲むもの食べるもの、ぜんぶが繊細に違う。

そして、そのときどきに起きる心の変化もまた、同じように細やかなグラデーション、二度と同じ感覚、それは快も不快もどちらも、そのままの形や温度で訪れることはない。

似ているものを探しても、同じものはない。

過去のじぶんが書いたものを読むと、まざまざとそのときに感じていたすべてを思い出す。

編集を終えフィクション化された記憶は美しくセンチメンタルでとても美味しい。

現在との差分からじぶんの変容を知るのもまた感慨深く、とにかくたのしい。

つまり「振り返ることができる」「記憶の編集を意図的に行える」といった利点が書き記しておくことにはある。

感情を伴う記憶はそうではない記憶に比べ脳的なインパクトも大きい。

感じたことと学んだことをセットで記録するスタイルによって仕事に関する技術や生き方に関する技術を磨く効果もあるかもしれない。

しかし、それだけなら内向的なコミュニケーション、つまり誰にも見せず書き留める行為に留まってもいい。

なぜひとに伝えたくなるのか、ツールとしてwebに公開されるものが使いやすいのか、それともそれだけではないのか。

「ひとにシェアをする」とは

わたしには何人か「こういうことを感じて生きている」「現実に起きている事実を繋げるとこんな風に意味を解ける」という類の話を共有するひとがそのときそのときのタイミングでいる。

近くなったり遠くなったりを規則正しく繰り返す星々の巡りと似た感覚だけれども、好き嫌いの次元を超えて、その相手はそのときのじぶんと相手にとって必要な相手が配置されている。

それは毎日の出来事に意味を与え、主観的に生きる眼と客観的にじぶんを俯瞰する眼との両方を行き来する効果のあるコミュニケーションができるパートナーとなる。

交換される情報の多くは非常に個人的で社会に晒される意味を持たない。わたしとその相手にのみ意味のある内容であることが多い。

とはいえ、この限定的なシェアにも多分な価値がある。その最も大きな効能は「じぶんはどのように現実を見ているか」がわかる点だと思う。

じぶんの内から外へ

出来事は現実に起きた事実わたしが感じたことによって構成される。ときどきそれに加えて社会的な解釈個人的な意味付けが含まれることで、一見シンプルな出来事が「問題」として人生に出現する。

現実に起きた時点ではその出来事の重たさはゼロ、それに対して意味付けや解釈がのっていくごとに、またあわせて主語が増える、つまり登場人物が増えたりそこに「関係性」という変数がくわわるとさらにその出来事にのる重たさは増え、結果として問題が完成する。

しかし、「ひとに話す」その行為は問題を因数分解する素晴らしい効果を持っている。

なにが起きたのか

それに対してどう感じたのか

今どのような状態か

どうしていきたいのか

といったような形で分類をし、実際に起きた事実と解釈が分かれる。

、、、ここまではひとりでもできる。つらつら書き出せば良い。ひとに話す最大の価値はツッコミが受けられるという点だろう。

あなたのツッコミのおかげで

わたしは特性としてゼロか100か思考になりがちな要素を持つ。黒か白かで世界は成り立ち、そこにグレーは存在しない。特にストレスがかかった状態になると世界がグラデーションから成立していることへの信頼はなくなり、チョウカハンカ!みたいな気持ちになり、絶望感に襲われがち。。

でも、近しいひとの一言は冷静に事実解釈とを分ける。また、実際に起きたこと予想される次に起きることを分ける。さらにいえば予想される次に起きることのパターン出しが、当事者ではない分、ネガティブポジティブの偏りが少ない。

つまり、とっても冷静に問題を出来事へと戻す力がこのシェアの価値である。

なぜ広範囲に向けてシェアをするのか

過去のじぶんの発信を分析すると、「仕事」「はたらくとは」「生きるということ」「愛とは」「恋とは」「好きになるということ」のような内容が多い。

それ以外は「こう感じた」「こう思った」「生きててよかった」というようなお礼のメッセージや喜びの点打ちのような内容、もしくはその逆のものがある。

これは潜在的だろうと意図してこうなっていると今冷静に思う。

後者に関しては刹那的な発信なので特に意味はない、言いたかっただけ、覚えておきたいから書いただけ。シンプルな意図だ。これはツールとして日記などは続かずよく見ていたSNSが手軽だったからそうなった。

前者に関しては、わたしの行動原理はおそらくふたつだ。

ひとつは好奇心、これを読んだ知り合いのひとたちはどのようなリアクションをするか、なにを思うか知りたいという興味。

これは振り返ると実際に回収できたケースが多く、共感や反論から「ひとの欲求や嗜好は多様である」ということへの理解や納得度が増すといういい効果があった。

これに関しては、未熟なまま発信を続けてきてよかったと今でも思う。多様性がなぜ大切なのか、その根拠となる感覚だから。

もうひとつは表明だ。

わたしは今こういう考えを持っている、こんなことは嬉しい、こんなことは苦しい。

それをひとに、それも近しいひとも近しくないひともいる場所で見せるというのは、読んだ読んでないに関わらず、わたしはこんな人物であるという表明を架空の世間に対して行っていることだと思う。

それは同時にじぶんに対してもわたしは今こうですよというコミュニケーションをしていたのだと思う。

この2つの欲求に支えられた発信はわたしをとても強くした。

わたしはなにを感じ、なにを考え、なにを求めているのかを、わたしが知っている。

それは誰かに対して、赤ちゃんのように「幸せにしてください」とお願いしなくて済むための土台である。

今、思うこと

もっとはやく、もっと遠くにいけるひともたくさんいるなかで、のろまな歩みだなと、幼く稚拙だと、じぶんのことを揶揄したい気持ちもある。

でもひとつ思うのは、書くことをたくさんしてきてよかったということ。

そのおかげで今のじぶんがいるから。

だけれども、この数年でずいぶん仕事の環境が変わった。

わたしはわたしだけれども、〇〇のわたし、わたしによって〇〇のイメージがアップしたりダウンをしたりというように伴う責任も大きくなった。

それは事実だ。

なので、これまで書いてきたものを編集もしくは非公開にしていく作業も必要そうだけれど、これから書いていくものも、今までとは違う視点や気合を入れて書いていく必要がある。

それは今いただいているお仕事への感謝の表し方でもあるし、プロになるための、大人としてのマナーを身につけるということでもある。

まあなんと遅い気づきか!とじぶんをつねるけれど、一段飛ばしでは進化できないじぶんなのだから仕方がない。

一方で近しいひとたちとのコミュニケーション、記録の残らない、そのときにしかできないコミュニケーションのなかで、なかなか言葉にしづらい内容に関して議論ができるようになったことも近頃の変化だ。

それはじぶんの枠を超えてコミュニケーションをとるようになったということで、前よりもずっと目の前にいるひとをそのまま愛してコミュニケーションをとれるようになったということでもある。

その日常的な磨き上げのなかで、もう少し遠くにいるひとたちへの投げかけ方を模索し、誤解を生む可能性をできるだけ下げた状態で、より多くのひとの心や解釈について知りたい内容を投げかけられるようなじぶんになっていきたい。

そのステージに立てれば、より多くの仕事ができる、より深くお役に立てるじぶんになれる、そんな気がしている。

ながーい思春期の終わりのような、、そんな恥ずかしさもあるけれど、これもまたひとつの記録として、今このときに言語化して、来年のじぶんがにやにやする材料に、、。

以上!

とても長くなったけれど、言語化、シェアすることへの考え事でした。

読んでくださってありがとう。

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関係ないようであるけど、これ最近読んだなかで一番よかったよ。

オードリー・タン 自由への手紙

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