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まじりあう/ むずかしい

「においがする」と、するするとした触り心地のじぶんの腕に鼻をあてて思う。

気だるくて起き上がるのもおっくうで、なにもかも知らないふりをしてこのまま眠っていられたらと思う。

そんなことはできないので、(失うものの量を考えると選べないので)、のそのそと立ち上がり、ぱしぱしとじぶんの身体を叩いてそこにいることを確かめ、シャワーを浴びる。

なにをシェアしているのか

電話が終わった後、わたしのそばに漂う気配はまさにそのひとのもので、それは安眠剤になることもあれば、カンフル剤になることもある。

電話の先にいる相手がなにを受け取ったかなど聞けるはずもなく、わたしはわたしが感じたものだけをあの世に持ち帰れるのだと改めて諦める。

同じように空間や時間を共有している間、見えない領域で色が混ざり合い新しい色をつくるのを見る。

新しい色はお互いのなかに少しずつ入り、ときとともにそのひとのものと一体化する。

食べ物を食べること、眠っている間に空間を離れ混じりあっていることなどとも似ている感覚としてある。

ぜんぶで吸って、混じり、ぜんぶを吐いて、混ぜて、の繰り返しのなかにいる。

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食べ物がわかりやすい?咀嚼して飲みくだし、気づけば肉体に変わっている。

バイアス、色眼鏡

うちのおばあちゃんは「ひとから聞いた誰かの話は一切信じない」ときっぱり言うほど噂が嫌いだ。

理由もわかりやすい。

そのひとと対峙するとき、先に入れた情報で相手の発している信号を歪めないほどの感受性など、持ち合わせているひとのほうが少ない。

騙されるのも、信じるのも、誰かではなくじぶんが決めること。

そのための感覚や基準をまだ持たない子どもは守ってやらねばならないが、大人はすべてが自己責任。

やるもやらないも、信じるか信じないかも。進むのか戻るのかも、じぶんで決められるはずと信じている。

本当には

誰も本当には他者を傷つけることなどできない。わたしも、あのひとも、そのひとも、どのひとも、である。

「傷つく」ということが起きるとき、そこにあるのはひとの行為や言葉や態度をじぶんの内にいれること、それらとじぶんとの関係づけること、またそれらをまとめて翻訳する過程のような気がしている。

ひとの話を聞いて、もしくは架空の一般論を聞いて傷つくのは、じぶんの内に重なるものがあるから、思い当たれるデータがあるから。もしくは回路がつながっているから。

(個人レベルではないアイデンティティで「傷つく」場合はまた別だけれども。)

ひたすらにじぶんを

そう思いたいということばかり言葉になって出てくる。

わたしのしていることやしたことが誰かをどこかで傷つけるのではないかという類の考え事は気遣いではなく傲りだと、しかし自身の行為には批判的であれと、なぜ「良き存在」としてありたいのかさえわからないまま、浮かぶ言葉に翻弄されながら日々を過ごしている。

そしてまた、この一連の思いごとは「あなたの何もかも、それらによってわたしが傷つけられることなどひとつもない」というメッセージとなって、じぶんを強くする。

それは同時に相手を責めたいと願うじぶんの弱さを捨てることでもある。

そのひとを責めることや、その行為や制度を責めることは、それに影響を及ぼすことができないじぶんのレベルの低さをあらわすだけの意味しか持たない。

批判と責めることは違う、ポジティブを履き違え願いを並べることも違う、「これじゃない」「これが近い」ダウジングマシンみたいだと思う。じぶんの心の揺れ方を見つめながら生きている。