しんとした寒さは、沖縄にはないそれで心がうきうきとする。
叔父さんの運転で日用品を買い出しに行く、それだけでもたのしくてワクワクしている。
一年ぶりの実家。
退院したばかりのおばあちゃんは思っていたよりもずっと元気で、おじいちゃんもよく笑いよく食べ、わたしがお土産にした可愛い色の靴下は年寄りっぽく見えたのか気に入らず「変わってるね」とのコメント。
黒糖と蜂蜜が美味しいから、プラマイゼロくらいかなと顔を見ながら思う。来年はもっと喜ばせよう。
今年は本当に仕事ばかりした年だったからか、気晴らしのほとんどは消費活動と結びついていた。シェアハウスが3月に終わってからはいわゆる「家族的」な繋がりも薄く、宜野湾のお店と那覇の職場での月に一度の時間だけがお金を介在しない喜びだったと思う。
だからなのか、空港に叔父さんが迎えにきてくれたのがまず嬉しく、「おかえり」と迎えてくれたもうひとりの叔父さんに「ただいま」と言えただけでもなんだか嬉しくて、「おなかをすいた」と言うわたしにささっとパスタをつくってくれた叔父さんに感激し。
お礼になんでもしてあげたくなって、お皿洗いもご飯の準備も買い物の手伝いも張り切って行った。
みんなでテレビを一緒に見るだけでたのしくて、ああでもないなこうでもないなと文句を言いながら、げらげら笑う。
こんな日々が欲しかったのだと思う日々は、こんな風に未来で与えられたりする。素敵ね。
好きなのと大切なのとは違うのかもしれないと、家族に久しぶりに会って感じる。出発前の夜、ネガティブに囚われたわたしに寄り添ってくれたひとは恋人のそれよりも家族的なそれでの愛情をくれた。
今日だけでもおじいちゃんたちからもらったものはたくさんある。
お互いに大切に思っていないとできないようなことを「家族だから」という理由で当たり前にしてしまう。その強さがここにはある。
家族じゃなくても、一緒に暮らしたふたりはたくさんのことをしてくれた。その前に6年一緒に暮らした彼も。
それはとても尊いことだと思ったし、わたしはこれからもそうやって好きだと思ったひとたちと「大切にしあう」ことをしたいと思った。
犬や猫が延々と舐めてくるのと似ていると思う。あれは幸せな時間の使い方のひとつだ。
毎日の暮らしのなかには、相手のことは好きだけど、してあげきれないことってたくさんある。なぜ「してあげきれない」のかは明確だ。時間が有限だからだ。
時間の優先順位、付け加えるのならお金の優先順位がある。そして瞬間移動ができないという制約。
好きだけでは、大切にしあえないこともある。
しんどいけど本当のことだと思った。
「今がよければそれでいい」と思えることがどんどん減る。時間は有限だと気付かされる出来事なんて嫌いだ。
でも事実なのだから仕方がない。時間は相対的なもの。しかし愛はぜんぶをこえていく。
しっかり「じぶんは何をどう表現したいのか」を見つめようと思う里帰り初日だった。