NOW 500→1000

じぶんとの適切な距離 / 選択と自由

久しぶりに晴れて、それだけで嬉しくて、ベランダに出しっぱなしていた布を取り込み、体に巻いた。

いそがしいと、いろんなことを取りこぼしてしまう。そんな気持ちにさせたいわけじゃないのにごめんと、波立つじぶんの様子にもうひとりのじぶんが申し訳なさそうにする。

じぶんを見つめるじぶんと、行動をするじぶんと。身体のほうがいつも数ミリ先に反応し、動く。それを感じて心がついていく、それを頭が理解する。

はだかのまんま、一番好きな布に包まれて、甘いものだけ食べたおなかはぎゅるぎゅると鳴く。

身体は呑気にリラックスしているのに、わたしは曇りのなかに沈む部屋の色合いにさみしさこみあげて、すこしだけ泣く。

いつだってじぶんの心をあとから理解する。待たせてごめん、傷つけてしまってごめんと、何度も思う。

誰かとの間に起きる問題なんて、たいてい、たいがい、だいたいぜんぶ、ほんとうはじぶんとじぶんの問題だ。

わたしはこれ以上わたしを傷つけられない。もらったプレゼントに頬をあてながら考える。わたしはもうこれ以上わたしを傷つけられない。

誰かとの間に起きる問題が誰かのせいではなくじぶんのなかで起きているように、誰かに一方的に傷つけられるということもあり得ない。

いつだって反応する種やふるい傷が「まるで相手がトリガーのように」振る舞い、声をあげているだけ。そんなの幻だ。

そんなのわかっている、それでも寂しくて悲しい。この気持ちはどこにもやれない、泣くことすら悔しくて途中でやめる、何もかもじぶんで選んでいるのだから。

傷つくとき、相手がトリガーだと錯覚するとき、昔の幻が追いかけてきて首を絞めるとき、必要なのは距離だ。

泣き喚くじぶんをよしよしとなだめることは、正解のようで間違いだ。冷静にながめ、状態が落ち着くのを待つ。その「待つ」という行為だけがわたしを救い、そしてそれは「じぶんと適切な距離を持つ」ということだ。

ひとつの思考、それも強烈にネガティブな思考のべたべたとした強い力から身をよじり走り、静かに息を整える。

津波のようなそれが落ち着いてはじめて、荒い波の合間に幼いじぶんを見つける。そのときはじめてわたしはわたしに対して、美味しいものや温泉やマッサージ、気が済むまで睡眠など、「愛している」のサインを贈る。

そうしてはじめて、ひとつひとつの古い傷がだんだんと癒されていく。生きている時間の大部分を歪んで過ごしてしまったのだ、正しいカタチを覚えるまでは時間がかかって当然だ。

それでも、この「じぶんとの適切な距離」をつかんだわたしは、社会での暮らしと、じぶんのなかを泳ぐ時間とを両立できている。

それは「じぶんのため」だけではない人生を意味する、誰かを愛すること、誰かの役に立てること、それは立派な生きる理由になる。ふつうの暮らしを続ける意思を育てる根っこになる。

さて、ではそのトリガーまがいの相手とどうするか、そんなことも簡単で、じぶんの内側の世界で行うそれと同じように、適切な距離まで下がるのだ。

未来と過去両方の流れを感じながら、出会いの意味を読み取る。そのとき初めて意味を知る。そんなことの繰り返しで、ご縁は結ばれ、また解け、わたしはわたしとの結びつき、じぶんの外の世界との結びつきを強めていく。

適切な距離まで下がってもまだ痛みが続くのなら、そのときは違う行動を選べばいい。過程を変えれば、手段を変えれば、結果は変わる。

収穫したいものに合わせた種を選ぶこと。意図を明確に持つこと。そしてじぶんの思考が追いつかない身体の動きを信頼すること。

あと3ヶ月で25歳が終わり、また春と夏と秋と冬を経験したら27になる。答えを決めたじぶんを尊重し、わたしはわたしであることをエンジョイする。

そういう諸々を自由意志というのではないかと近頃思っている。

f:id:pidakaparuna:20201212011251j:image

よる眠る前、電気をぜんぶ消して、ろうそくを灯してぼーっとするといい気持ちになるとか、そういう選択も自由意志に基づくなと思う。

なんでも選べる!自由だから迷ってしまうなんてことはない。迷うのは迷うことを選んでいる。

なんでも選べる。ろうそくを灯すことも、蛍光灯を点けることも、どうしようかうふふと考えることも、なんでも!