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ちらばってしまった / さみしい発作への対処

くたびれたせいなのか、雨のせいなのか、はたまた身体のリズムなのか。とんでもない「さみしい」の波におそわれてたじたじになっている。

誰かやなにかなど幻のようなもので、このさみしさはそれら起因ではない。わたしは誰かによってさみしくなるような弱さは持っていないし、それはこのさみしさを誰かのせいにしたくないという強い思いでもある。

「あなたくらいのときは故郷から離れて働いていて夕方心細くてよく泣いていた」と憧れてやまない大好きなひとが話してくれたことがあった。

「この時期の夕暮れはなんともいえないさみしさがあるから苦手なの」そう言っていたおねえさんもいた。

みんな闊達で素敵で強い年上の女性だ。大人になっても「さみしさ」はあるのだと教えてくれた。

しかし、このような激しいさみしさはそういったセンチメンタルなさみしさとは異なる。少しおかしい状態、きもちがいい状態から外れてしまった異常事態のさみしさだ。

発作には理由がある

わざわざ感じるということは、感じたくて感じている。脳科学者は心が悲しみと感じても脳はそれを刺激として喜んでいるという。

わたしは今、なにを目的にこのさみしさを感じているのか。

なんてこと考えたくもないくらい、さみしい。

何もかもに舌打ちをしたくなる。地団駄を踏んで訴えたい。

でも、ここまで書いてようやく「あり、そうでもないな」というじぶんがひょっこりと出てくる。

「書き出す」という行為によって嵐と距離を置くことに成功した兆しが見える。

お風呂にお湯を張って、部屋の明かりを落とし、ゆっくりする準備をする。

もうさっきの台風のようなさみしさは過ぎ去って、静かに、静かに、今ひとりでいることを感じる。

ひとりで感じてみる

いろんなことで解消しようと試みたから、隣にだれがいてくれたところで、このさみしさがなくならないことをわたしはもう知っている。

強くなったなぁと、過去をちょびっと振り返る。

そして、丁寧に丁寧に、いったいなにが原因だったのかをじぶんのなかに潜りながら探していく。不調のとき、乱れるとき、そこには小さい小さい点、画用紙に針であけた穴のような点、そういうきっかけがある。

それがこの星のうえ万物に影響する物理の法則にのっとって、時間とともに育ってしまうと、こういう爆発的なさみしさになる。

理由を見つける

ああそうか、それが悲しかったのか。

じぶんの気持ちと相手の気持ちが違うように感じたから、それが悲しかったのか。

寄り添って感じていると、じぶんのなかで膨らんでいた想像が想像に過ぎないことを思い出す。

本当のことは聞いてみなければわからない。

そこまで気づくと悲しみは癒えて、さみしさも乾いている。

いっぱい泣いたあとのような気だるさを抱えながら、これに対してどうするかを決める。

対処をする

こんな事態にならない環境をつくることだって選べる、どうしたい?とじぶんに尋ねる。被害者になることはいつだって最も簡単で、そしてそれは創造的な幸福から最も遠ざかる行為だ。

わたしのことはわたしが決められる。

その決意の力強さだけがわたしの命を支え、守っている。

そして一通りのことに答えを出し終えると、すっかりわたしは脱力してしまって、もうなにも悲しいこともなく、さみしいこともなく、今にただある。

ホッとしながら、今これを書き終えている。

今日もいい日だった。最後にそう思えて、明日朝がきますようにと思えるのなら大丈夫。

よかった。そして、これらの工程にただ寄り添ってくれるひとにたくさん感謝している。ありがとう。

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