「声が聞きたいなぁ」とか「顔が見たいなぁ」と思うのは、緩やかな恋の始まりであったり、親しい関係になれる兆しであったりする。
握手をしたときの感覚でフィーリングが合うのか合わないのかがわかるように、食べ物を一緒に食べたときの雰囲気で同じ群れなのかそうではないのかがわかるように。
身体的な感覚と湧き上がる感情は、ひととの関係において信頼に値する羅針盤になる。
昨晩いただいた新しい出会いはチカチカと煌めきを放って、目にも皮膚にも刺激的だった。だんだんと複数の声に酔い最終的に体力が切れて帰る。
帰り道、歩きながら大勢のひととすれ違う。
このひととも、あのひととも、ご縁は結ばれない。
でも、沖縄に来るきっかけになった入試の英語の長文読解の設問で書かれていたように、6人伝えば地球を覆えるネットワークになるのだから、あのひともこのひとも、きっと知り合いの知り合い。
どの繋がりも等しく愛おしいけれど、そのなかでも刺激の多い、一瞬視線を重ねただけで胸がいっぱいになるような、そんなひとが稀に現れる。
人生でもきっとたくさん訪れない出会いだろうと、その度数年持続する気持ちを眺めていると思う。おばあちゃんになっても忘れない気持ちたち。
そして毎回そういうひととの出会いが大きくじぶんを変える。仕事の仕方、生活の仕方、ひととのコミュニケーション、大きな変化を、より愛が溢れる方向へとわたしを導いていく。
そんなひとと出会えたことがまず嬉しいこと、幸せなこと。その感覚がブレるのは今の社会の仕組みやルールを優先したとき。
告白して付き合い、付き合った先に結婚という第一ゴールを、、。交わる方法なんて刷り込まれた恋愛の枠組みに囚われなければ出会いの数だけあるのに。
結婚、だいたい恋に落ちた相手が同性だったときは選択すらできない制度、そんなものに惹かれるとき、わたしの場合はいつもじぶんへの、じぶんの未来への不信がある。
保険として誰かを求める、それもある意味で生き物として健全なこと、でもわたしはわたしにゆるさない。その感覚をピンク色の感情でラッピングすることをゆるさない。
久しぶりにずっと寄り添って生きたひととビデオ通話をしながら、やっぱりそう思った。
誰よりもたくさん一緒に眠り、ご飯を食べて、助手席に座った。あの時代に満たしてもらったおかげで、わたしは今ひとりでいられる。ひとりでご飯を食べてもさみしさを感じない。
わたしの未来の保険をこのひとに課した瞬間、その契約は足かせになってしまう。どこまでも幸せでいてほしいとしか思っていない、家族に近いような、ある意味で家族よりもわたしをよく知っているひとだから、そばに置いておきたい気持ちもある。
だからこそ、やっぱりわたしはよしと思えない。
ふたりが一緒にいることでよりたくさんのものを生み出せたり、お互いのうしろにある家族をもっと幸福にできると思うとき、そうしたいと願ったときに、はじめてその契約はポジティブになる。
子どもを授かったら、その子を一緒に幸せにしようとシンプルに思うかもしれない。
それでも今は、その選択肢を選びたい気持ちはなく、むしろ肩書きや契約ごとではなく「会いたいから会いにきたよ」「声が聞きたいから電話をかけたよ」「喜んでほしくてプレゼントを持ってきたよ」と、まっすぐに愛情を交わしていたい。
本当のことはシンプルで、その真っ直ぐな尊さをすべての約束や義務、責任が邪魔をする。
思うまま、感じるままに愛情を表現して生きていたい。そして、相手のそれもその自由に担保された本当のものだと感じていたい。
湧き上がる気持ちを押し込めれば押し込めるほど、なにかが歪んで、なにかが減っていくから、安心してそれを表現してもらえる相手でありたい。
まだまだ刹那的な感情に振り回されることも多く、鍛錬が必要な面もたくさんあるけど、そんなことを思っているの。
一緒に暮らせるひとと出会えていないからこそ、さみしさを感じる時間が多いからこそ、ふといただくいろんなひとからの愛情に敏感であれる。
それは今にしかない、とても繊細な感覚。
そのやわらかな色合いのやさしさを味わうことは、誰かと一緒に暮らすなかで感じるさみしさの意味を変えてくれると思う。
だから、ポジティブな面もネガティブな面もまるっと今の暮らしは完璧に愛おしいよ。