イヤホンを耳にいれれば、ながれてくる音が身体に蓋をする。
さみしいこと、くるしいこと、かなしいこと、うれしいこと、たのしいこと、いろんな感情がくるくると身体のなかに閉じ込められたまま、一定のテンポ、曲に合わせて揺れる。
物理的に蓋をしているからなのか、つくられた音楽が逆の波長になって曲と同じ感情は打ち消されているのか、静かでいるときよりもずっと歩きやすくなる。
調子がいいときよりもわるいとき、たのしいときよりもさみしいときに音楽を聴くことが多い。
ひとといるときは、逆だけれど。
そのときはたいてい一緒に聴くためにスピーカーから流れてるから。
ずっと前、いちばん苦しかった頃、いつもイヤホンを片方渡してくれたことを思い出す。ワインレッドのiPodにはたくさんの曲が入っていた。
他の記憶は薄れていく一方なのに、(わたしにとっては)宝物のように感じるあの期間のことはおばあちゃんになっても忘れないだろうと思う。
知らないバンドの曲も、知っているはずの曲も、なにもかもげんきをくれた。
あの頃のじぶんがまだ生まれてから10数年だったことに今になって驚いている。
ずんずんずんずん歩く。
一歩踏み出すごとに気が軽くなる。
あったものがなくなるのは、いつだってこたえる。でもたいていそういうときって、果たして最初からほんとうにあったか?と問いかけられている。
ひととの出会いはいつだって与えられるもの。お別れだって同じこと。
歩いて歩いて気が済むと、耳のなかにあるイヤホンが邪魔に感じられて外す。
ご近所さんに話しかけられ会話が始まる。
るんるんと家に戻ったその頃にはもうさみしかったことは終わっている。
もう少し大人になればきっと、もっと生きやすくなるだろう。感情の起伏は穏やかになり、簡単に恋に落ちることなどもなくなり、在り方でメッセージを伝えられるようになり。
その日のための今日なのだと、腹をくくってまたじぶんと生きていくことを選んで、シャワーをあびて、服を着替え、髪を乾かし、家を出る。