久しぶりに会う友人たちと会話をたのしむ。ひとを好きになること、性別と性格の関連の否定、困った冗談への対処、仕事をするうえでの気持ちの話、話題は尽きず気づけば3時を回る。
じぶんの言葉を紡ぎ、大きな主語ではなくひとりのひととして会話のキャッチボールをする喜び。お互いの価値観の微細なグラデーションを味わえる喜び。
言葉の波、音によって輪郭をあたえられた情報のなか浸りながら、内側を刺激されながら、また次の瞬間へと移っていく。
そんなこと考えていたと懐かしく思った次の瞬間、嵐のような3日間。ひと、ひと、ひと。お客さまとするお買い物は、まるで一種のセラピーのよう。
深いところで繋がり合いながら、ほんとうに必要なものだけを言葉数を意図的に減らしながらオススメしていく。
売りたいと思えば売れず、このひとの役に立ちたいと願ったら売上は自然と上がる。ベストを尽くしたら後はタイミングを待つしかないのだと開催するその度に思う。
展示会の次の日から当たり前のように別の仕事。没頭しては空腹や眠気で我に帰る。考え事を言葉にするシーンが減り、行動でそれを表現する時間が増える。
身近なひとたちとの会話は深度を増し、毎回の議論が心地よい刺激をくれる。
すべてを仕事のなかに信念をチップスとして埋め込んで、そのうえで重なる目標を達成するためにがんばりたい。
合間合間においしいものをいただきながら、生き延びている。
毎年お盆のこの時期は過去がぐぐぐと鎌首もたげ迫ってくるような気がする、苦笑いしたくなるような光景。
目の前の相手によって感情を揺らすのではなく、過去の何かと重ねているのだと思う。
わたしはうんと強くなったのに、まだこんな弱さがじぶんの内にあるのかと思うと、ほとほとに悔しくて呆れてしまう。
誰かを失うことは生きている限り避けられないのに、そしてその苦しみは実際のところ真実ではないのに、未だその幻想からじぶんを解き放てないことが嫌だ。
万物うまれかわりて満ち満ちて、そうやってできてる世界で息をしているというのに、なかなかそれに委ねきれない。
できることを増やし続け、もっと強くなったとしても、たぶんこのしんどさは形を変えてあらわれる。
それを感じることも驕りの一種、真っ向から直視すると決めるしか、このしんどさを終える手段はないのだと思う。
どんなにグロテスクでじぶんから排除したい、ないものにしたい感覚だったとしても見つめてしまうしかない。
ひとのせいにしているうちは、ほんとうの意味で幸せになんてなれない。