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愛情表現についての思いごと / 岡本敏子『恋愛芸術家』

今日は「もしもわたしが保菌者だったら」設定ではじめた自主隔離の最終日。

セレクトショップはお休みのままだったので、月火木はLagoonのお仕事をフルリモートで対応した他の日は、ひたすら家の片付けと書き起こしのお仕事。

整理整頓は非常に苦手で、なんなら「生活」が苦手なのでいい機会だった。

おばあちゃんが大学合格したときにくれた手紙が荷ほどきをしていたら出てきたよ。

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そのなかには「人間とは理性があってこそ人間なのですから」というようなことが書かれていて。その手紙をもらってからもう8年も経とうとしているのに、未だに誰かが一緒なほうがまともに暮らすというじぶんの性質を苦笑い。

思い返すと、その手紙を沖縄へと向かう飛行機で読んではじめて「あれはおばあちゃんたちの愛だったのか」とわかったんだったんだなぁ。

もう近くにはいなくなるという孫に向かって、いつも以上の叱咤激励(叱咤8割激励2割)がA4ルーズリーフ3枚に渡りびっしりと書かれたその手紙。

それは、おばあちゃんたちとの暮らしのなかでかけられた言葉の割合そのもの。

わたしはまだまだ未熟者だったので、一緒に暮らしていたあの2年弱は「なんでこんなにずっと叱られにゃならんのだ」「これがジェネレーションギャップか」「もうちょっと優しくしてくれい」と思いながら(多少舌打ちしながら)暮らしてたんだけど。

そうじゃなくてあれがふたりの「愛してる」だったんだなぁとしみじみ。

そういう風に「こうだと思い込んでいたのに」ということがバリバリと剥がされる経験ってなんであんなに気持ちがいいんでしょう。

、、、

近しいひとの行動も「じぶんの思う愛情表現」と重なるか重ならないかで、それが愛かどうか判断を下してみたり。(それはもはや審判)

どんな風に思ってくれてるかなんて、どれだけ話していたってわからないのにね。

ーー

「愛」にもいろいろあるけれど結局のところそこにどのような欲求が混じり合うかでラベルが変わるだけで、源は同じもの。

かつもたらされる学びさえ、もう何もかも同じだなということを常々考えています。

誰にも見せない顔が見たいという好奇心は性欲に変わりながら大概それは「恋愛」とよばれ、誰かの役に立ちたい、身を尽くしたいと湧き上がる奉仕の欲求は「仕事」という形で昇華され、大切にしたいというような庇護欲は身体的な安全を求める低次元の欲求とあわさって群れ・共同体を守る「愛」になり。

愛というのは便利な言葉だなと思いつつも「愛してるよ」とはなかなか言えないのはその言葉があまりに大きすぎるからだろうかと考察中。

だから(おそらくみなさん)じぶんなりの「愛してる」をそれが相手に届いているだろうと錯覚しながら、もしくは届いているかどうか丁寧に翻訳をしながら、キャッチボールを重ねながら、関係を深めるんだろうと思うわけです。

そんな考え事のなか読み終えた岡本太郎のパートナーである敏子さんの書かれた一冊。これはまた新しい感覚をじぶんのなかに強烈に運んできた本。

帯に書かれた一言に胸撃ち抜かれて、那覇の古本屋で購入したの。

「「愛してる」なんて言われたことなんて、一度もなかった。でも、わたくしにはちゃんとわかってた。言わなきゃわかんないような関係なら、最初から始めなきゃいいのよ。」

恋愛芸術家

恋愛芸術家

 

とってもとっても力強いその言葉にわたしはまだびっくりしている。

本のなかでは繰り返し「なにを相手に求めているの?」「惹かれていることをなぜ隠すの?」「どうして愛を限定的に捉えるの?」と問われる。

ほんとうに、実はそれくらいシンプルなものなんだよなぁと、昔書いたじぶんの気持ちを思い出しながら、寂しくてもこのままでいようっていうようなことを決めたよ。 

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