「小さな子どものようなところと、大人なところがあるのよね」と笑われて、たしかにそうだと頷いた。わたしには小さな子どものようなところと、うんと歳をとった大人のようなところと両方がある。
そして出会うひとも皆、わたしと同じように小さな子どもと大きな大人を身体のうちに生かしているのだと、近頃特によく思う。
ひと月前の金沢への旅ぶりに、今度は「お誕生日だから」と沖縄に会いにきてくれたひとと3泊4日の時間を過ごし、宝物のような景色といくつも出会い、今日は久しぶりに職場に出勤した。
目の前のお仕事に意味があるはずと、がんばれたりがんばれなかったりするけれど、今日も今日進められる分だけの仕事はできたなと思いながら、今帰りのバスで、久しぶりにこうやって文字を打っていることにホッとしている。
この3泊4日は特別に幸福で、沖縄をより好きだと思ったし、わたしの好きな「沖縄」は人であり自然であるのだと認識を深める旅だった。
行く先々で出会う大好きなひとたちに、7回目のお誕生日のお祝いをしてくれる彼を紹介しながら、たしかに彼はパートナーだなぁと思った。
浜比嘉島で数年ぶりに再会した純子さんが「一緒に人生を創造すると思うと結婚ってたのしいよ」というようなことをおっしゃって、わたしはすとんとそれが肚におちた音を聞いた。
結婚するなら彼がいいなと思った、彼は感じる心も考える頭もひとを気遣う優しさもある変なひとだから。
でもそれはまだまだ先の話で、なぜかというとまだまだわたしたちはお互いにそれぞれの命を膨らませていたいシーズンを生きているからだ。
それでも時折こうやって会えて話が出来て触れ合えるのは喜びだと思った、他にそんな風に時間を共有できるひとってなかなかいないし、彼みたいに「いい」変なひとは少ないから。
でも今は、ひとりでいられることにホッとしているじぶんもいて。それも本当なのだとただ感じている。
世の中の価値観やラベル、ルールをじぶんの身体から剥がしていく試みはもうほぼ完了していて、彼氏だからとか結婚は恋愛のゴールだとか何歳までには子どもをとかは一切思っていない。
そういう葛藤は一ミリもないけど「大切にする」「愛する」というような、じぶんの心の表現にはとても迷いがある。
フレッシュな一瞬の感情は、突き抜ける衝動は本物。でも、1秒ずれただけで、もうそれはわたしのものではないような。とってもcomplicated なのだ。
そこにはルールがあってモラルがあって、わたしが今こうやって一人でバスにいることにホッとしているのも、なんだか一瞬間違いに感じてしまう、彼を恋しがらないといけないような、それが根本的にできないじぶんに嫌気がさすような気持ち。
でも、瞬間瞬間、ちゃんと表現できた気持ちもたくさんあって、いつもそれに救われる。朝起きておはようと言いたくなって伝えられるとか、、そういう些細な「できた!」がわたしに実態を与えているような気がする。
まだまだ人間として未熟で、しかし完成している。きっと死ぬまでこうなのだろうと笑いながら、もうすぐお家につけることを今度は喜んでいる。
ころころと変わる気分、くるくると回る頭、どちらもあってわたしなのだ。たぶん「社会的に生きる」ためにはそれではいけないんだけど、「それでいいよ」とじぶんだけは言ってあげたい気持ちである。
それでいいよ。は、ごめんねと、ありがとうとに混じりながら、絶妙な色合いをつくって、わたしの人生を豊かにする。
ありがとう。