字面にしてみる言葉
耳から聞こえてくる言葉
目の前から響く言葉
それぞれに受け取れる情報量が違うのは、こちら側の度量の問題なんだろう。
小さなささくれのような違和感も、言葉の形と重ならない意味の波形も、どちらが正解かなんてわからない。
でもこの「わからない」を超えたくて、ひとはひととコミュニケーションをとることをやめない。
わからないから知りたい。
知りたいから行動を重ねる。
知りたいって一体なんなんだ
死ぬかもしれないと思いながらもフグを食べるのをやめられなかったひとの気持ちや、うまいのかわからんと思いながらもごぼうと向き合い続けたひとの気持ちとか。あれも「知りたい」のひとつ。
わたしも「そっち側」だと思いながら、ありがたーく美味しいものを美味しくいただく。
なんでここから出たいと思うのか、どうしてこんな風になっちゃったのか「知りたい」と思うから学び、学びながら進んできた今までの道のり。
「知りたい」って思わなかったら学ばない、「知りたい」って思わなかったら飛び出ない。知りたいと思った先にはいつだって新しい何かとの出会いがあって、その何かは確実に「わたし」を変え続ける。
そんな風にしてできた「わたし」というぼやぼやしたものを、昨日初めて出会ったゲストの方は「とてもいい」と(褒め上手な方だったけれど)そう何度も言ってくださって、とても嬉しかった。(昨日のイベントのお仕事もほんとうに楽しかった!!!)
わたしの枠が壊れるということ
というわけで、どうしようもないと諦めてこの「わたし」というものと折り合いをつけながら生きている。
「わたし」のことはだいたい知っていて、もうこれといって新しい理解はないだろうと思っているのに。
ときどき「なんじゃそりゃ」と思う状態に「わたし」がなるものがあって、それが今取り組んでいるお仕事だったり、セレクトショップでのトライアンドエラーだったり、イベントのお仕事の面白いところなんだけれど。
枠を壊される感覚ってやみつきになるのだ。こんなじぶんもいたのかと驚いてしまう。それがたのしいのもあって新しいひととの出会いやお仕事との出会いが嬉しいのかもしれない。
静的な幸せと動的な幸せとがあって、これは動的なそれに分類されるもの。
静的な幸せ
今、くもりのなか灰色のお部屋でのそのそと起き出した同居人と向き合ってそれぞれにお仕事をするのは静的な幸せ。
2人とばらばらに暮らすのはきっと寂しいね。
(朝から「ふとんがふっとんできた!」と大笑いのひととつられてツボるひと)
でも、2年一緒に暮らしたおばあちゃんの家を出たあとも半年くらいで沖縄の暮らしに慣れたし、4年一緒に暮らしたひとと離れるときだっていっぱい泣いたけど3ヶ月くらいでげんきになった。
ちゃんとげんきになれること知っているから、今のわたしはうんと強いと思う。
この暮らしも、はじまりは「知りたい」だったよ。
男の子2人と暮らすのをやってみたい、ジェンダーと身体的な性差はどれくらいわたしたちに内在化されているのか知りたい、ふたりと暮らして生まれるストレスの種類が知りたい、その乗り越え方を知りたい、それらの試みを通じて生まれるじぶんの変容を知りたい。
動的な幸せが次の静的な幸せを運んでくる
つまり、そういうことなんだと思う。3人で暮らすのだってめんどくさいこといっぱいった。契約は誰がするの、機嫌がわるいときどうするの、お金はどうやって分け合うの。
でも結局「知りたい」が「めんどくさい」に勝ったから、行動した。
それの繰り返しでわたしの人生はできている。めんどくさいに勝てる欲求って意外といっぱいあるよね。めんどくさいはホメオスタシス。そこにいると幸福だというコンフォートゾーンの境目を教えてくれる。
その境目をぞわぞわとなぞるようにして触れられる刺激によって、もしくはうんと向こう側から「ええ!?なにそれ!?」みたいなへんてこなものがちらりと見えて突撃したくなっちゃうような煽りによって、わたしはまたこのゾーンを出ていくのだ。
拡大と縮小を重ねながら
そんなことの繰り返しで、ゆっくりとじぶんの力で拡大していく領域と、ひとや出来事との出会いによって耕される領域と。ゆったりと広がって体積をひろげ、少し立ち止まって縮んでいるあいだに質量がおもたくなっていく。
死ぬ頃には開拓がだいぶ終わって死ぬのか、こんだけちっぽけなところこんなに深く掘ってたのかと笑って死ぬのか。
やりたいことなんてなくていいんだよ、この「知りたい」が全てなんだよと、おばあちゃんになったわたしは笑っているような気がする。
まあそんなのわからないけど、生きていく意味って、この漫画にいっぱい描かれていたように「たくさん愛して、愛されて、思いを持って行動を重ね、周りのひとを幸福にしたか、幸福になれる仕掛けを増やしたか」だと思っているのね。
(もうすっごい良かったよ、久しぶりに号泣した。)
なんの話だっけ。
今だって、いつだって
どちらにせよ「めんどくさい」につい打ち勝ってしまう魅力のあるなにかとの出会いをエンジョイさせてください。と、「わたし」がわたしに訴えるので、わたしはわたしで「おおせのままに」とおちゃらけながら(傷つくのは嫌だけど)思ってることちょっとずつ言葉に形に行動に表してみよう〜とゆるい決意をしているよ。
そんなものとの出会いって、人生でそんなにないかもしれないじゃない。
10年後、20年後に「ああやっぱりあのとき」って思うのが一番かっこわるい。
結局どこまでも自己中な人生よ。笑って死ねたらそれでよし。
と、じぶんを正当化しながら生きる日々です。
・・・という気持ちに優しくよりそってくれる一曲です。
ひと気の無い場所で 例えばこんな愛を育む
そのテクスチャーをあげよう悲しみの時代を 生きることは それぞれ
例えようのない 愛を生むのさ散らばった愛を まとめる時間に
振り回されないで いいのさ風は綿毛を運んで 人は流れ流れる
振り返れば もう君はいないや愛はどこでも 消えない気持ち
懐かしむこと 慈しむこと
許し合うこと 見えないことも見ようとする
強い気持ちのこと気のせいだろう 何だか あきらめそうになるよ
失うことばっかりじゃないのにこのままなんて嫌だ でもアイデアなんてないよ
失うことばかりで困るな散らばった愛を まとめる時間に
振り回されないで いいのさ悩みはつきないな でもそれくらいのほうが
君の気持ちが全部 わかるんだSource: https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/quruli/loveless/
おしまい。