「いつもエネルギー高くいられたらいいのになぁ」と、働いてるセレクトショップのカウンターでオーナーとお喋りしてるときに話した。
キョトンとした顔をされたあとに「そんなのクルクルパーじゃない」と笑われた。
いいのよいつも元気じゃなくて と静かに諭されて、大人しくなる。元気じゃないと「元気じゃないの?」と心配してくれるひとでもあるので、なんにせよ愛されているということを実感してほんのりといい気分。
最近わかったのだけれどわたしの人生観というのは「つまらない (退屈)」のか「おもしろい (愉しい) 」のかというX軸と、「好き (いいきもち) 」なのか「嫌い (いやなきもち) 」なのかというY軸によるものらしい。
わかったからといってなにかあるわけではないのだけれど、全ての感情や行動がこれ目線でジャッジされ、またマトリクス化したときに「つまらない」かつ「嫌い」にあてはまることを少しでもしようとすると具合が悪くなることがわかってニヤニヤした。
つまるところ、そういう癖なんじゃないか。じぶん探求癖。
じぶんのことを知るのはつくづく面白い。日々変わるので飽きもしない。
こないだのイベントの打ち上げで「24歳にしては達観しているというか...孤独になる考え方をしているね」という言葉をいただいて、すこし考え込んだ。
「24歳にしては」というのは、「発言者のなかの24歳周辺の人物データの平均値からはみ出て」という意味だというのはすぐに理解できたけれど、「達観」と「孤独になる考え方」は時間がかかった。
人間は生まれてから死ぬまで実はずっと孤独だろうと思う。
だからこそ人との出会いは喜びにあふれ、まただからこそ、人との別れは悲しみにあふれ。
それを一種の茶番のように見つめる観察者としての「孤独なじぶん」がいる。
その観察者としてのじぶんと向き合わず、もしくは一致せずに生きていくと、誰かを憎みつづけたり、誰かに囚われて生きていかなければならなくなってしまう。
そんなことをしていてはあっという間に寿命を迎えてあの世行き。それじゃあまりに哀しすぎると思うのだ。
ブルーハーツの歌詞に「生まれたからには生きてやる」というのがあって、わたしはこれが非常に好き。強い決意、そして潔い諦めが詰まっているから好き。
まだ通ったことのない道を見つけたときの喜びや、出会ったことのない類のひととの出会い、じぶんが今まで認識していたじぶんをやすやすと壊し新しいじぶんを見せてくれる景色との出会い。
そういうものに満たされて生きていきたい、生きていたい。
「幸せになるために生まれてきたんだよ」と、僕との出会いのことなんか忘れてもいいから、それだけは覚えておきなさいと言ってくれた人がいた。
いつも一緒にいられなくなっても、たえず連絡を取らなくなっても、愛情を注いでくれたひとたちのおかげで今のわたしがいる。
「孤独になる生き方をしているね」「さみしいんだね」と言ってもらって、すこしドキッとしたけど、やっぱり人間はみんな孤独だろうと思うし、みんな孤独ならみんな孤独ではないということでもある。
さみしいはさみしいんだけど、でもやっぱり「生まれたからには生きてやる」なのだ。それをしっかりわかってないと、本当の意味で出会ったひとのこと愛せないんだもの。
それはまた今度言語化してみよう。言葉にすればするほど、意識の枠がはっきりするね。