一年前に書いた文章を眺めながら「それでいいよ」とじぶんに思う。それでいいよ、これでいいよ。
考え方や、言語化のスピード、ぜんぶ好き
こんなに素敵なひとそうそういないと思いながら隣を歩くでも、好きなひとは彼ひとりじゃない
空港から降りたってすぐに電話をかけた相手のひとも
上野駅まで迎えにきてくれたかわいいひとも
神社で迎えてくれたちいさなひとも
神楽のなか、ふざけた動作で舞った年老いたひとも
東京の街中ばったりと出会ったやさしいひとも
駅ではにかんで立っていた小柄なひとも
沖縄のお菓子をポケットから差し出してくれたひとも書き出していくと胸がいっぱいになるくらい
出会っているひとみんなのことを好きだと思うひとだけではない
見上げたときいつも表情を変え寄り添ってくれる空も
ふとしたときに大きなギフトをくれる光のもとの太陽も
その下で青々と揺れる木々の幹もその枝葉も
道沿いを埋め尽くすように色とりどりに咲く花々も自然だけではない
耳元をうるさく飛び回る小さく完璧な造形の虫たちも
飼い主の目をまっすぐに見つめ走り寄る犬らも
ひとのエゴに付き合わされへとへとな顔をした馬も
撫でようと伸びる手をするり交わして笑っている猫も生き物だけではない
誰かが誰かを思いつくった無機質な道路も
誰かが誰かを救いたくてつくった不恰好な制度も
誰かが誰かを守るために始めた不平等な商売も
誰かが誰かを考え建てたであろう不器用な建物も何の差があるだろうと
この星が好きだと、そういうことを今思う身体的なリズムに沿って揺れる性的な欲求
それと「好き」を切り離して考えてみるとこんなにも自由精神的なリズムにのって生じる執着や破壊的な衝動
それと「愛」を切り離して考えてみればこんなにも身軽大好きで大切なすべて
そのすべてとわたしとの間に伸びるまっすぐな線
どの一本一本も絶対的に存在し、比較などできるはずもないすべて等しく、すべて異なる
でも、これだけが全てではない心の底に潜っていく
(あの頃書いたじぶんの本音に、今のじぶんがドキッとする。あの頃好きだったひとのことをわたしはもう思い出せなくて、それには苦笑いする。)
(あの頃は好きだと思っても踏み出せなかった。特別な"好き"があることも見て見ぬ振り。今のじぶんはちゃんと向き合って踏み出せるようになった。それが嬉しいと思ったよ。)
(だから次誰かにそれを感じたら、次は怯えずにそれを表現したいな。最初から怖がらなかったらと後悔するのは飽きちゃった。次はたぶん怖がらないで表現できるような気がする、どんなひとかも知らないけどね。)
さて、外側からも「頑張らないで」「ぼちぼちね」と笑いながら抱きしめてもらって、今日はいい日になった。
昨日の夜と、おとといの夜はひとりぼっちの気分になって、なんだか深くて暗い海の底でじーっと息をしているような、ひどく体が重たく頭はガンガンと痛くて、もう何もかも投げ出してしまいたいような気分だった。
気分が切り替わることのないまま、体は重たいまま那覇の職場へ。
「ーーーの子を預かっていて」と、彼のことを慈しんでいることが伝わる声で、親しいひとがそう話していた。わたしと同じ年齢で同じ状況のその子について思いを馳せれば馳せるほど、あの頃助けてくれた大人のひとたちの顔が浮かんだ。
どんなに嫌な気持ちになっても生きていくことを選ぶのは、じぶんを傷つけないことを選ぶのは、あの頃助けてくれた大人のひとたちをがっかりさせたくないという意地のようなものがあるから。
それはいいことだと思う。遠い過去の話なんだけれども、未来とつながっている、そこにアクセスすればするほどメビウスの輪を感じる類のもの。
ひとと本
数日前のイベントで「あなたという分厚い本を読んでいる気分になる」(読まされている気分になる?)という一言をいただいた。
そうかーとただ静かに思った。わたしもそう思うと心のどこかでなぜか同意していた。
その次の日のイベントの様子は、便利なものでパソコンから覗き見ができた。(働きながらだったから休憩の間にちょびっとだったけど)
「本を読む」ことについて様々な視点から話があった、大まかにまとめると1. 脳みそが豊かになる 2. 心が豊かになる 3. 豊かになった結果人生も豊かになる という具合だった。
わたしが本を読むのは、どうしてかな。と考えた。
わたしと本
小さい頃からずっと本は身近にあって、退屈な電車のなかや待ち時間、苦手な社交の場でいつもわたしの味方だった。
本をひらけばいつでもそこには別世界があり、その世界がわたしは大好きだった。
変化したのは中学生の頃だ。じぶんの心の癖や、じぶんの心の不安定さ、じぶんの人生に関するいくつかの出来事を読み解くために専門的なものを読み始めた。
精神医学の本や哲学、歴史の本やそれにまつわる詩集、宗教に関するもの、あらゆるものに手をだして、どんどんと消化した。
なかでも強烈だったのは「意識がじぶんの人生を形作る」という「この人生は限りなく自責だ」というわたしにとっての”事実”だった。
それは精神医学の本のなかでも、歴史の本のなかでも、生物医学の本のなかでも、はたまたスピリチュアルな本のなかでも繰り返し描かれる真理だった。
それから、時間はかかったけれど、わたしは実生活の中でそれが事実だということを検証し終え、そのなかで出会ったエーリッヒフロムの「愛するということ」に救われ、じぶんを深く抱きしめ直し、またそれに誘導されるように家族やご先祖様、つながっているひとたちのことを愛するようになっていった。(もしくは、じぶんに沸き起こる感情や欲求について「愛」と認識するようになった)
そう、だからわたしは本によって救われ、本によって生かされ、人生がどんどんと明るくなっていくにつれ実際に尊敬してやまない著者の方達に出会う機会も与えられ、ますます人生がいい感じになり、自責は当たり前になり・・・。
10年前とは違う意識でおなじじぶんを生きている。
正直、感情が揺れることはあっても日常で悩むことはないし、苦しいことはあってもいつだってその意図は理解できるようになった。
そんな今でも本を読むことが好きなのは、まだまだ知りたいことがあるからだ。
知りたいことはつきない
今知りたいことは、ダーウィンの進化論が崩壊しつつあるなかで人間という種はどこにルーツがあるのか(それは今のじぶんが違和感を感じる人間の持つ欲求についての問いを明らかにするから)
あとはなんだろう、もはや趣味のような「時間」について「空間」についての理解を深めるため、フロムの本でもわからなかったひとや場やなにかに恋に落ちる理由、そして子を授かる意味、家族のよりよい形、よりよい社会の形、、、うーん。
「限りなく自責」と言いながら、生まれ落ちることを望んだ部分を思い出せない理由・・・まだまだ知りたいことはたくさんある。
結局、わたしはわたしの持つルーツやストーリーから出発して10年間、たくさんたくさん旅をしてきたんだなぁ。そしてこれからもそれは続くのだ。
これからについて思うこと
まあだから、その、わたしも「わたしという分厚い本」を読んでいるような気分になるときはときどきあるなぁと、なんだかイベントのときにザワザワした心をようやくなめおわった感じ。
トラウマの解消は「完全に終わり」ということはなくて、わたしの心はまだ弱い部分もあり、でもそれは必要だからそうなのだ。
答えはいつも日常にある、わたしは弱いけど、でも強い。
ここからの10年は・・・なんだろ?わたしみずえさんみたいな大人になりたいな。
「はるな、人生ってたのしいね!」生きるってたのしいね!そう姿で見せてくれる、みずえさんみたいになりたいなぁ。