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いっぱい書こう、じぶんのために。

「なぜならスマホというのは、退屈だったり、ちょっと現実逃避をしたかったり、なぜかイライラしたときにさわるものだから。」と、今日読んだ松浦弥太郎の『おとなのきほん』のなかに書かれていたその一文を見たときに、ここ最近の考え事の点と点が線になって繋がった。

バンコクとチェンマイにいた10日間、意図的にSNSを絶った。徹底的にログインできなくなった結果、なぜそれを見ていたか、どうしてそれを見たかったか、なにを書き込みたかったか、それはどうしてだったかを理解した。

この数日思い切ってアカウントを消すかどうか考えた結果としてわたしはまだSNSを利用すると決めたのだけれど、今考えていることはきちんと残しておこうと思う。

  1. SNSは世界で一番尖ったメディア

  2. (わたしの)使い方の変遷

  3. なぜ伝えたいのか、なぜ知りたいのか

  4. 恋に落ちると

  5. バーチャルは現実に劣る

  6. 手紙≒ZINE

おとなのきほん 自分の殻を破る方法

おとなのきほん 自分の殻を破る方法

 

SNSは世界で一番尖ったメディア

その言葉を教えてくれたのは大学のときにわたしが「政治を学ぶ意味」を姿から学んだあるひとりの先生だった。

「SNSは世界で一番尖ったメディアだからねぇ」とタバコの煙とともに、どこかため息混じりにその言葉はわたしの前に現れた。

見たいものだけ見て、見たくないものはブロック(もしくは”平和的に”フォローを解除)して見ないことができる。

周りの日常や飛び交う意見やシェアされるニュースがそのひとの「世間」をつくっていく。居心地の悪い価値観を排除し、居心地の良い価値観だけがのこるタイムライン。

だいたいのひとは「なんか違うんじゃない?」と思ってもひとの投稿にコメントなんてしないから、そのひとのもとには賛同者の声だけが主に集まる。

(わたしの)使い方の変遷

「SNSは世界で一番尖ったメディア」ということを数年前に理解してからも特に気にすることなく利用をし続けた。思ったことを思ったときに書き、そのボールが「他者という壁」に当たってコメントや時折寄せられるメッセージのような形で返ってくるのをたのしんでいた。よりじぶんのことを知るためのツールとして、またあるときはひととの距離を縮める手段としてSNSはわたしの役に立った。

だんだんとそのじぶんの使い方に違和感を持ち始めたのは、シェアハウスをスタートしたことがきっかけだった。

思ったことを思ったときに言える相手がいて、さらに同居人はふたりとも思考を深めるタイプだったので話せば話すほどよりはっきりとじぶんの形を認識できたり、新しい発見があったりと、SNSに書くよりもたのしいことが増えたのだ。

そして、SNSに投稿する内容は同居人と話した結果として出てきたことや、その頃は”パートナー”と呼んでいた大切なひととの会話や試みの結果への思考、仕事についてのあれやこれやといったものに変化していった。

なぜ伝えたいのか、なぜ知りたいのか

そうなってくると、だんだんと寄せられる反応も変わってくるようになった。より深く「こう思ったよ」という相手の考え事や相手の視点、経験談について話をしてくれるひとが増えたのだ。

こちらが先に裸になると相手も服を脱ぎやすいのかもしれないと考えながら、それらの言葉についてありがたいなと思いながらいつもお話をしていた。

面白いと思った。わたしが考えたことや感じたことを誰かが見て、なにかを感じてそこで考えが生まれそれがわたしのもとへ返ってくる。そしてわたしの考え事に新しい視点が加わり、わたしはより世界について理解を深め、その過程でまたじぶんへの理解を深めることもできる。

そういったような変化を通して、だんだんとそうやってボールを投げ返してくれるひと、つまり誰かはわからない「壁」ではなく特定の「ひと」の顔を浮かべながら投稿することが増えた。

両の手で足りてしまうようなそのひとたちの顔を浮かべながら、日々の考え事や感じたこと、出来事を深めながらわたしは投稿を重ねていた。

恋に落ちると

また相手に強烈に興味がわくとじぶんが通常の範囲で観察した結果得られる情報量を超えてそのひとのことをもっと深く知りたいと願うということも知った。

そのひとならどう考えるのか、そのひとならどういう言葉を選ぶのか、そういうことひとつひとつを知りたいと思うじぶんの癖に気づいた。

つまりわたしは、もっともっとその考え事を深めたり、その感じたことに他者の視点が加わってまた違う味わいになったものを再度味わうのが好きな性質と、恋に落ちるときは大抵相手の考え事や言葉、在り方、人生に対するスタンスにくらっとくるようなフェチズムを持っている生き物だということ。

伝えたいのも、相手の反応が知りたいのも、この「好き」とフェチズムのせいなんだろう。この性質とフェチズムはわたしをいい気分にも嫌な気分にもする。

しかしこの星の原則として物事の裏表をうけいれよ!というものがある(と思っている)ので、「いい気分も嫌な気分もどちらも受け入れます」というスタンスで生きているので、それがもたらす効果ってわりとどうでもいいのだ。

そこにあるのは伝えてみたい(反応を知りたい)と思う欲求と、(ふつうの関係では知り得ないところまで)相手をもっと知りたいという欲求、それだけなのだ。

で、嫌な気分についての考え事は今回のテーマとはずれてしまうので割愛、いい気分について深めるとそこには”身体性”というキーワードが隠れていることがわかった。

たとえば「いいね」よりも「超いいね」が嬉しくて、それよりもコメントが嬉しくて、さらにメッセージだともっと嬉しく、それがお電話だとさらに幸せで、直接お話ができるのは一番たのしいような。

相手がかけてくれる手間も嬉しいのかもしれないね。

バーチャルは現実に劣る

結論は、当たり前だけどそういうことなんだと思う。

バーチャルなコミュニケーションは身体を伴ったコミュニケーションに比べて軽くて薄くて味気ない。

指一本のタップで受信も送信もできてしまうその手軽さゆえ交わせる言葉は多い。

そうすると一回一回のやりとりは積み重なりやすく、それに伴って時間が経つのもやけに早いのでなんだかお腹いっぱいになった気がするというファストフードのような魅力を持っている。

でもどこまでいってもジャンクはジャンク。栄養分は薄く、血肉になりづらい。

お互いを知るための情報にはなっても、関係を育むための材料にはならない。

それは人生を一瞬だけ賑やかにするが本質的には満たしてくれない。逆にもっと知りたいのにどこまでいっても本当の意味では知れないというストレスで蕁麻疹ができるぐらいに行為と意味が真逆なコミュニケーションだと知った。

しばらく前に女優の堀北真希さんと俳優の山本耕史さんが結婚したときに、山本さんが演技へのアドバイスを手紙に書いて、それがだんだんと増えて40通くらい文通したというエピソードがあった。

そのやりとりのなかで愛が深まったと振り返っていたコメントがあったけど、それがmessengerや、LINEやDMなんかだったらまた違う話になっていたんじゃないかと思うのだ。

(生まれて初めてもらったラブレターをわたしはまだ捨てられずに持っているけれど、それぐらい直筆の手紙って嬉しいものだよね。)

じゃあ文明から離れて、、というわけじゃなく、直接時間を共有できる瞬間をつくるために、やりとりを重ねる。

それがなんだかんだで、じぶんには合っているんだろうと腑に落ちたところ。(会えないときは目の前にいる人を大切にする。それもまた似た位置にある考え事でもある。)

手紙≒ZINE

さてさて、わたしは実はもう24歳最終ブロック突入中、次の3月26日には25歳を迎えるのです。

マックは時々食べるけど、いつも食べたいものはそうじゃない。コミュニケーションも情報の摂取もここらでぐいっとハンドルを切りましょうとタイで10日過ごさせてもらった間に決意しました。

見たい未来をつくるためにはちんたらしてる場合じゃない。

実は冒頭で引用した松浦弥太郎さんの「なぜならスマホというのは、退屈だったり、ちょっと現実逃避をしたかったり、なぜかイライラしたときにさわるものだから。」という言葉には続きがあって。そのスマホを開いたときにどんな文章があるといいか、どういうコンテンツがあるといいかという話。

「アウトプットは、人の感情とつながりを持てば持つほど、人の役に立てるものになるのではないでしょうか。僕らはコンテンツを見てもらうとき、ユーザーから時間をいただいています。(中略)だから、僕がコミュニケーションをするなら、人の感情を助けるものにしたい、そう感じているのです。」

おとなのきほん 自分の殻を破る方法

おとなのきほん 自分の殻を破る方法

 

p.26 より抜粋。

わたしもゆくゆくはそんな風な文章を書ける人間になりたいと、そういう風に思う次第でございます。なんだか決意表明がしたくなって、ついつい締めはそういう感じ。

読んでくださってありがとう。

このブログはもともと「1000記事書いたら奇跡が起きるよ」というあるひとからの言葉をもとに始めたもので、そしてそれがあれよあれよとこれで716記事目、あと284回更新したら目標達成。

もうびっくりするぐらいの奇跡がたくさん起きている人生ですが、せっかくだからあと284回やってみよう!と思います。

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全部受け入れながらまるっと進むために、きっとこの1000回の更新があるんだろうね。もしかしたら1000回じぶんと向き合ってようやくなにかのスタートラインに立てるのかもしれない。

バンコクのスワンナプーム空港についた瞬間、大勢のひとたちのなかであまりにもひとりぼっちを感じてわたしは泣いてしまった。でもそのあとじんわりと体が芯からあたたかくなった。

どこまでもどこまでも、どこまでもどこまでも、わたしはわたしとともに在るのだ。それだけは不確かなことだらけのこの世界で唯一確かなことだね。

それを感じて書いた言葉がこの写真でした。