3日ほど溢れるものは濁流のようなのに言葉にならない期間が続いていた。
言葉にしようとしてもすぐにずれてしまうので何度も書いては消してじぶんの今を見つめていた。さっきようやくなにかが腑に落ちて、やっとどう在るかまた決め直すことができた。
そうしたらなぜ今このように生きているのか、そしてどのように生きていくのかハッキリしたので書き出すことにした。
わたしはどこまでいってもわたしを見つめ、その都度その都度軌道修正を重ねていくことでしかこの世界を生き抜けない。
- 突然何かを失うということ
- 酸っぱいブドウ、甘いレモン
- 振り子の人生
- 老化と進化
- 生きる醍醐味
突然何かを失うということ
欲求が叶わなかったとき、暴力的に感じる突然さによってなにかが奪われたとき、じぶんではどうしようもないことを理由になにかを失ったとき。
人生にはときどきそういうことが起きる。
今までも何度もそんなことはあった。
どの夜もその後数ヶ月数年もわたしはそれ以前の暮らしや状態への欲求を抑えこめず怒りと嘆きに身を壊されかけていた。
そんなときに、どういう姿勢をとるか。
これより先はないと思っていた20歳を軽々飛び越え、沖縄での暮らしも6年目。
ようやく叔父や祖父のいう「来るもの拒まず、去る者追わず、そういうものだ仕方ない」という家訓(のようなもの)の意味を理解し、今のじぶんの最大限を生きることを選べるようになった。
嘆きも怒りもなにも生まない。それは徐々にわたし自身を蝕み健康な思考を奪いやがて心を殺す。
酸っぱいブドウ、甘いレモン
しばらく前にどこかで聞いた酸っぱいブドウと甘いレモンの話が浮かぶ。
「あんなの欲しくなかった」「あれはどうせ酸っぱいに違いない」と欲しいのに手が届かないブドウを諦める狐の寓話。
そして、ほんとうは酸っぱいのに「甘い甘い」と喜んだふりを重ねながらレモンを食べる例え話。
今のじぶんを最大限に生き切る。
この2つの話はそれができているか?とわたしに問い直す。問われるような出来事に遭遇してしまったこの数日を終えてわたしはもう一度決めた。
酸っぱいレモンを食べるときは酸っぱいと感じていることをきちんと自覚し、ほんとうに食べたいものはブドウなのかを見つめたうえでほんとうに欲しいなら取りにいこう。
そして食べてからそれが酸っぱいのか甘いのかを判断しよう。食べるまでは解釈してはいけない。それは相手の背景を知らないのに批判してはいけないこととよく似ている。
つまり、ブドウが取れないことを正当化するために酸っぱいと決めつけるのではなく、わたしが今求めているのはブドウなのかをじぶんと世界に問いながら生きることを選ぶということを決めた。
振り子の人生
じぶんを正当化するために欲しいものが得られなかったことをよしとするのではなく、欲しいものが得られなかった経験を通してわたしが欲しかったものがなにかを学ぶ。
その繰り返しを重ねていくうちにわたしという振り子の揺れが中心へと収束していく。振り子の揺れ全体が人生であり、振り子を俯瞰できる全体がこの世界だ。
振り子の座標はひとつひとつの経験と同義。
わたしがほんとうに欲しいものがなにかを理解したときにそれをちゃんと手に入れられる器になっているために、わたしは今大げさに揺れる振り子そのものとして生きている。
その振り子の揺れ、片方の極を俯瞰している立場で味わうたびにその中心からの距離とエネルギー量から中心には何があるのかを推測する。
経験すれば経験するほど知っている座標は増え、ときどき起きる風、つまりポジティブもしくはネガティブなアクシデントによってまた振り子はエネルギーを得て違うリズムで新たな距離を生みながら揺れる。
ポジティブかネガティブかは重要ではない、大切なのはそれによってもたらされるエネルギーの絶対値だ。
わたしはわたしで在ることしかできない。この振り子がなくなる日はこない。いつ中心点を悟るのかもわからない、死んで初めてわかることも多かろう。
ただわかることはわたしはこのわたしでしか在れないということだ。
老化と進化
わたしはわたしでしか在れない。
それは変えようのない事実だ。わたしは今世を終えるまでこの身体この顔この声で生きていく。一日を終えるごとに身体は朽ち顔は皺だらけになり肌は萎み声は掠れていくのかもしれない。
しかし反対に内面は日々富んでいく。
一日一日の経験がわたしに学びを与え、その学びへの思考を深めることで脳は進化し、新たに取り組む仕事や出会いで認知の回路は拡大し続ける。
それは誰にも奪えないわたしの財産となる。
その財産はわたしを通して然るべき方法で然るべき範囲で共有され、人間の文化的な進化に超わずかかもしれないけれど貢献する。
それこそが今日を生きている意味で、それは今の社会のルールで生産的かとか価値があるかとかにも判断されない。
この広い時間軸のなかで何がいつどのように役に立つようになるかなんて、わからないのだから。
生きる醍醐味
わたしのなかにある感覚に沿って、湧き上がる生々しい感情に沿って、すべての偶然が教えてくれる知識に沿って、わたしはわたしの人生を創り上げる。
それこそが生きる醍醐味なんじゃないのかと感じている。この感覚なくしては生きている瞬間全てが表現だなどとは口が裂けても言えない。
こないだのラートのステージを見てくれたひとのなかに数名細やかに感想を伝えてくれた方がいらした。
登場した瞬間に泣いてくださったという。
回っているのを見てなんてたのしそうなんだと共鳴してじぶんもたのしくなったという。
今書いていても身体が熱くなる。
それこそわたしが真に求めているものだろう。
生きる醍醐味は日々をあますことなく感じながら積み重ねていくこと、そしてそれを凝縮させ形を変えこの世界へと放つこと。
ハレの日に行われることはすべてケの日のためにありケの日に行われることはすべてハレの日のためにある。
わたしの日常はすべて時折訪れる大勢の人とシェアできる瞬間のためにあり、その瞬間はまたわたしの日常すべてのためにある。
この感覚を忘れなければ大丈夫だと思う。
初めて言語化できた喜びが溢れている。
わたしはわたしでしか在れない。
その健全な諦めだけがこの先を照らしてくれる光になる。わたしはわたしでしか在れない。
それは今のわたしが認知できるよりはるか大きなスケールでとても力強い事実なのだと思う。
当たり前に地球の上にいるひとりひとりがその力を持っている。生まれた時から死ぬまでずっと。
わたしはわたしでしか在れない。
それだけが今のわたしに必要な真実である。
そしてもうひとつ大切な事実はこれから先の現実を切り開く術はすべてわたしがわたしでしか在れない今生きている目の前に並んでいるということ。必ず。