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わたしの言葉で生きるということ

ともだちと話していてわかったことがあった。

なんで今ある価値観や今ある言葉でじぶんの心を表現したり相手とコミュニケーションを取りたくないと決めているのか。

それは、じぶんが生きるためだった。

誰かの言葉や誰かの価値観、今ある制度のなかで覚えた表現でじぶんを表したりコミュニケーションを取ることはとても簡単だ。

そこには脳の力をつかうスペースもないし、相手が言いたいことはどういうことだろうと想像するために耳を大きく傾けることも必要ない。

でも、後天的に身につけたものだけで生きていくのなら、そこにわたしはいらないことになる。

わたしが感じること、感じたこと、思ったこと、思えないこと、考えていること。

下手くそでも嘘なくぴったりくる言葉を探して色を見つけてしかるべきリズムで表せるとほんとうに嬉しい。

そこには生まれてきてから今日までの道のりがあり、その前に脈々とつながる自然や人の命の情報があり、毎日身体いっぱいに受け取っている情報がある。

わたしがいるのだ。

生きてる意味がそこにある。誰かの言葉でいいのなら、誰かの考えでいいのなら、誰かの価値観でいいのなら、わたしは生きている意味がない。

この話にはもうひとつ側面がある。

みんな一緒の意味を持っているという幸福な勘違いのもと言葉を交わし続けると、ひとは傷つきまた傷つけられる。

好き、嫌い、おいしい、まずい、たのしい、たのしくない、美しい、美しくない、付き合う、仕事、働く、なんでもいいんだけど、その言葉で表現されるものはひとりひとりニュアンスが違う、前提となっている人生が違う。

本当は違うのに、同じなように言葉を使うから心の幅が狭くなり想像力が乏しくなっていく。

ひとの気持ちが想像できなくて誰かを傷つけたことがたくさんある、そのたびにそのとき使っていた言葉は誰かの言葉だった。

くわえていえば、そこには「ふつうさ」「みんな」「あたりまえ」って枕詞がつくことも多くあったと思う。

嘘をつきたくないと強く強く思うのは、わたしが容易に嘘をついてきたからだ。当たり前に当たり前の言葉を使って、たくさんじぶんの気持ちを説明して、いつの間にかすっかりじぶんとすれ違ってしまったからだ。

今ようやく、嘘をつかないと決めて2年あまりたって、ようやくわたしはなにがわたしなのか言語化はできなくても存在が感じられるようになった。

なによりも、ひとや場やものとの関係が変わり、仕事が変わり、暮らしが変わった。

わたしはわたしに湧く愛情をきちんとぴったりの言葉を見つけて相手に届け、必要があれば翻訳もできるようになった。

傷つけられることも減り、傷つけることも減った。

思い込みからコミュニケーションを取らなくなったからだ。相手の使っている言葉はじぶんと違うと理解したからだ。今ある制度に従って生きるだけでは生きてる実感がわかないとわかったからだ。

真心から発した言葉は誰も傷つけられない。

そこにあるのは絶対的な相手への愛情と、相手にはどのような選択を行う自由もあるという認識、わたしにもそれがあるというわたしへの愛情と、わたしは然るべき選択が選べるというわたしへの信頼。

なんでもルールを破りたいといってるわけじゃなくて、ひとつひとつにじぶんを存在させたいと、その道のりの先になんとなく光があるように思うのだ。

だって現にそれをし始めてからずっとずっと幸せを感じている。

周りにいる人も前よりもずっとハッピーそう。

これを周りの人に求めることは絶対しない、それも自由だ。誰もがそのひとの生き方や在り方を尊重されるべきだ。

だから、わたしはわたしであるしかない。
特にパートナーシップについてはめちゃくちゃ不安で、もしかしたら結局ひとりぼっちになるんじゃないかという恐怖はずっと持ってる。

仕事についてはなんとかなりそうだと最近思うし、コミュニティをなくすこともないだろうと思う。

でもパートナーシップについてはもしかしたら無理かもしれない。ほんとうにこわい。でもそれでも、そこだけは普通をだなんてできないし、したくないから、しない。

そんな風に生きている。
はじめて言語化できた。
読んでくださってありがとう。
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大人っぽくなったねって言われて嬉しかった。

ありがとう。