動物的だとじぶんによく思う。
おじいちゃんによく「それは人間じゃない」とよく叱られていた。
人間は毎朝決まった時間に起きてご飯を3回食べてきちんと眠る、掃除と洗濯も毎日する。
一緒に暮らしていたあの一年、わたしはなかなか生活習慣が身につかないために度々そうやってお小言をもらっていたのだ。
あれからもう10年弱経つけれど相変わらずわたしは人間的に暮らせていないし、むしろどんどん動物的になっていると思う。
食べたいときに食べたいものを食べるのが幸せだと思うし、眠りたいときに眠れないと調子が狂う。
一番は寝る場所だ、前はホテルのふかふかのベッドが大好きでどこかへ行くたびの楽しみだったのに、今では床に茣蓙を一枚敷いてそのうえにリネンを藍で染めた大判の布を敷いて横たわるのが一番心安らぐ寝床になった。
体のうえにはタイの人の手で紡がれたコットン、これも藍で染められたもの、やわらかなその布がある。
この寝床が一番ホッとするのだ。
今ではときどき違う場所で眠るとベッドがふかふかすぎて腰が痛くなるくらい。
生き方も似ている。
おじいちゃんとおばあちゃんに長期的なキャリアを描きなさい、長く生きると思って人生を考えてみなさいと諭されても、できない。
できないじぶんが嫌になるけど、想像すらできない。
3ヶ月前は好きですらなかったものが好きになってたり、半年前は行きたいとも一度も思わなかったような場所へのチケットを取ったり。
ちょっと先のこともわからない。
動物だ。
感覚もどんどん動物のそれ、考えるよりも前に感じる匂いにその後の選択が左右される。
いくら脳みそがいいと言っても身体が動かないとき、それは動かない。
とはいえまだこの感覚を信じ切れるほどデータもたまっていないので、感覚を死ぬほどうたがいながら感覚に従うという変なことを日々している。
この考え事してるといつも「好きなことして野垂れ死ぬならそれもまたよし」と言い切ったひとのことを思い出す。
そういえばそのひとのことも大好きだった。
わたしはじぶんの本質を見つめて生きているひとが好きだ。
ひとを好きになりながらわたしはわたしのかけらを集めている。ひとつひとつに共鳴しながらわたしはわたしを思い出していく。
これが終わったら何か始まるのか、それとも死ぬまでこれの繰り返しなのか。
なんにせよ、わたしもいつかは歳をとるのだから積み重ねられるものは積み重ねたいものだと人ごとのように思うばかり。
一周して人間らしくなれるのか、それともずっと動物なのか、100年後にわかるのか明後日わかるのかそんなこと考えてもしかたないから目の前にあるお仕事をひとつひとつやるの。
目の前にいるひと、手が触れ合える場所にいるひとをたのしませながら生きるのだ。
ーー
どうしてひとを好きになるの?ってしばらく考えてたけど、共鳴ってヒントをもらったおかげで理解。
その理解が終わったあと、なんで共鳴が起きるの?って思って、それも共鳴が倍音の発生のメカニズムの一部だと知って理解。
わかる わかった にはいくつもレベルがあって、知ってるのとわかってるのもまた違うので奥深い。
血筋的にやっぱり研究好きなんだろうとじぶんのこの癖については解釈してる。
藍染で感じとったことも、しばらくしたら何なのかわかることでしょう。たのしみ。
藍の匂い、まだ身体いっぱいにのこっている。