音、音、音。
浅い音や深い音、幅の狭い音や広い音。
たくさんのリズムの合間を縫って、聞こえてくるのは伝えたいこと。
喜び、JOY、来てくれてありがとう、みんなでたのしみましょう
でもそれは紛いごと。
音そのものには理由なく、意味もない。
解釈をつけたわたしがいるというだけのこと。
聞こえてくることはわたしのみにとっては真実で、他のひとにとっては違うこと。
身体いっぱいで踊りながら、わたしは一体なんなんだとよくわからなくなって、終いにはよくわからないことも忘れてしまうくらいによく踊った。
ひとりで踊っているときはつまらなくて、ふたりで踊っているときはたのしかった。
音、音、音。
繰り返し口のなか身体の内側から言葉を響かせていく。
意味が先にありそれを伝えるための音。
でも、口から出るまではまっとうでまごうことないそのままの真実が、唇が(もしくは指先が)形をつくり離れていった瞬間には形を変えてしまう。
ほんとうの言葉だけをわたすのはとても難しい。
じぶんが満たされるために相手をつかうのとじぶんから溢れたものを相手に渡すのとは表面からみるとほとんど同じ様子なのに、根本が違うから収穫する内容も異なるのだ。
音、音、音。
言葉の前には、思いがあって、思いに形を与えれば音が生まれ言葉が編まれる。
でもとてもじゃないが足りない、今知っている言葉では足りない、合間から漏れていく、ほんとうに伝えたいと思ったことは枠組みからこぼれていく。
共通の概念はお互いを助けるようでその概念の理解の度合いやそもそもの定義づけによっては、とても足を引っ張る。
もっとまっさらにコミュニケーションを取るためには、わたしがもっとまっさらになる必要がある。
いつだってそうだ。
お仕事も、日々の暮らしのなかでも。
わたしはただ、もっとまっさらになる必要がある。注意深く。