空の色一刻一刻変わり、その青のグラデーションに季節の移り変わりの気配を感じている。
風にビュービュー前髪を遊ばれながら、たくさんの観光客の人を横目にバスを待つ。
バスを待つのは嫌いじゃなく、そういうちょっとした隙間の時間に本を読めることや、こうやって文字が打てることは、生きることの息抜きのような意味があるようにも思う。
あっちの奥はまだ夕暮れ。こっちは夜。
昨日の夜、積もり積もったホームシックや寂しさが閾値を超えたのか、涙がぽろぽろ出てしまう。
そんなとき、そんなことは滅多にないのに偶然のように電話をかけてくれた彼の言った言葉がとても印象的だった。
「まだ天国から落ちてきたことがないんだね」みたいな言葉で茶化しながら今のわたしを例えたうえで、「今、夢中になっていることは?」と尋ねられ、寂しさの沼から一気に引っこ抜かれたような感覚になった。
仕事と答えてみたけれど「うっそだー」とすぐに笑われ、一生懸命考えて笑いながら「ひとかなぁ」というとお互いになんだか力が抜けて笑ってしまった。
そのあとはくだらない理由で電話を切ったんだけど、たかだか数十分ですっかり心に栄養が行き渡って驚いた。
夢中っていい言葉だと思った。
質問ひとつでわたしを今に連れ戻してくれた彼もやっぱりとっても素敵だと思った。
ここ最近ひさしぶりに数人の人の口からポリアモリーという単語を聞く。
久しぶりに聞いたなぁと、言葉をたくさん使っていたのは2年前だったとその頃のことを思い出す。
あの頃、たいていのひとから聞くポリアモリーの話は、理性の欠如した性欲の暴走みたいなパターンが多くて、ちょっとがっかりしていた。
身体を重ねている一瞬は我を忘れられて生きていることの煩わしさから自由になるかもしれないけど、そんな一瞬の逃避に意味はないし、女のひとの身体ではリスクがありすぎる。
大切な関係を築いているのに誰かを好きになってしまったというのは、もっとじぶんと大いに向き合う必要がある事柄だと思っている。
もっとフランクにかるく遊べる人がいるのも今日知ったけど、わたしはそういうタイプにはなれないので仕方ない。
そして定義づけは重要ではないし、じぶんだけではないとホッとすることも無意味、ただコミュニケーションのツールになりうる共通認識の形成のためにだけ意味がある。
でも、わたしはポリアモリーではない、とは返事ができなかった。それは大いに矛盾する。
やっぱりまだうまくいえないね。ひとを好きになる理由は必ず言語化できないし、理解しようとするとシャッターがおりてしまう。
そこには意味がないよということなのか。
まだまだわからない、でも、なんで好きになるのかより、せっかく出会えたことを喜びたい。瞬間瞬間に素直にその喜びを表現したい。関係が変容するのかどうか、ご縁が深まるのかどうかはわたしのコントロール外にあること。
わたしはわたしのできることをしようと、ここまで書いてやっぱり昨日彼に言った「ひとかなぁ」もそのあとに笑ってしまったのも、本当のことだったからあんなに可笑しかったんだなと腑に落ちる。
夢中なのだ、ひとに、じぶんに。一番面白い。ひとを通してわたしはわたしをより理解する。それがたのしい。
今は、ポリアモリーなのか、、と考えてたあの頃よりずっと自由でずっとたのしい。