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映画「トゥルーマン・ショー」を観た / 誰かの人生をコンテンツとして消費する面白さ

少し前に映画「トゥルーマン・ショー」を見た。

一緒に観た素敵なひとは「胸糞悪い映画だ」と評していて、それもそうだと思いながらその感想を聞いた。

トゥルーマン・ショー [Blu-ray]

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トゥルーマン・ショーは「あるひとりのひとが赤ちゃんのときからテレビ番組で24時間中継され、生きている世界はセットのなか、登場するひとたちはみんな演者、ストーリーを考えるプロデューサーのアイデア通りにそのひとの人生は進んでいく」というストーリー。

24時間の中継は一度もCMは入らず、主人公の世界に登場する演者たちが生活の様々な場面で商品をPRしていく。

主人公はいくつかのきっかけを経てじぶんが生きている世界がつくりものだと気づき、そしてトラウマを乗り越えてセットの外へ。

プロデューサーは最後まで「このなかにいればお前は幸せなんだ、この世界こそ本当の世界なんだ、外の世界に幸福はないんだよ」と語りかける。

それでも、主人公はセットの外へ。

そして、セットの外へ続く扉に手をかけたそのとき、30数年続いた番組は終わる。

そこまで固唾を飲んで見守っていた視聴者達は、つーつーと涙を流しお互いに感想を言い合うが、次の瞬間には退屈そうにチャンネルを回す。

SNSとよく似ていると思った。

誰かの日常や誰かにとっての大事件をわたしたちは読む。ときどき「共通する誰か」の話題が大きく盛り上がる。ポジティブなことでも、ネガティブなことでも。

「正しいこと」はすごい武器で「えらいひと」の声は大きい。誰かのフィードの言葉は誰かの言葉だけれども、ある一定の反応を超えるとその言葉は誰かの言葉ではなく「みんなの言葉」へと進化する。

しかしやがてそれさえもひとつのコンテンツとして消費されていく。いいね、ひどいね、かなしいね、うけるね、すごいね。

わたしはSNSが好きで顔が浮かぶあのひとやあのひとに日常をメッセージで送りたくなるのをこらえるためにフィードに投稿する。

している考え事や思い事に対するひとの反応が知りたくて、そしてそれを通してよりじぶんを知りたいからすべてをあらわにしたまま投稿を重ねる。

ときに意図的にじぶんの仕事のために投稿をすることもある。

でも、批判なく無思考で使うつもりは一切ない。

そうなるくらいならやめたほうがましだと思っている。

パソコンなんておもちゃだ、携帯だってそう。

生きていくのには必要ない飾りだ。

それでも、今のこの社会のなかでより豊かに生きるため、見たいものを見るため、届けたいひとに出会うためにこのおもちゃを使っている。

おもちゃでひとを殴ることはしない。

道具と使いみちが違うからだ。

でもそれもあくまでわたしにとっての正義でしかなく、わたしにとってのまっとうでしかない。

でもそれでも、道に迷いそうになったとき、誰を信じたらいいのかわからくなる錯覚に溺れるとき、ちゃんとじぶんの真ん中に帰ってこられるように、わたしはわたしの真ん中を知っていなくてはならない。

わたしの真ん中は、わたしのまっとうは、わたしの正義は、これはおもちゃであり、意図的に誰かを傷つけるための道具ではないというのが今の答え。

トゥルーマンショーを観たあと、なんだかそんなことを考え込んでしまっていたのを今思い出した。

ひとなんてどうでもいいのだとじぶんを深く知るたびに思う。それは冷たい言葉ではない、ひとがどう思うか、ひとにどう思われるかは関係ないというだけのこと。たくさんの違う生命体のなかでじぶんはどう在りたいのかどうしたいのかを極めていくだけ。ただそれだけのこと。

誰も悪くない、敵も味方もいない。わたしはわたしの仕事を積み上げていくだけだとじぶんと会話を改めてできてとても良い機会だった。トゥルーマン・ショーを観ているひとのようには絶対にならない。その面白さに共感せずただ見つめる目や感じ方をわたしはなくさない。

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