ひとりのひとを愛おしく思う瞬間が毎日の暮らしのなかときどき起きる。
それは強烈な感情でどこにいても誰といても気づいたら涙が頬伝う。
そんなのは”変なひと”なので、こっそり窓のほうを向いたり、トイレに行ったり、やり過ごす。
誰かのことを愛おしく思うとき、それはいつもそのひとそのものに触れた瞬間にひとつの大きな、でも体積としては小さな衝撃を起こす。そして全身を中心から揺らしていく。
誰かのことをそういう風に思い身体が芯から揺らされるとき、そこにはいつも同じ構造がある。
母、妹、姉、娘、親、父、息子、弟、兄、友、妻、夫、社員、社長、上司、部下、同僚、姪、甥、叔父、叔母、彼、彼女。
なにもかもの肩書のような殻が外れていく。ガランと音を立てて、その大きな壁のようなものがスピードを持って落ちていく。
周囲に散らばったそれさえとても尊いもの、そのひとの持つ愛情の表現として必要なものだけれども、その中心それ自体の力強さにわたしはいつも感動する。
ひとは強い。
今、ちょうど姉とやりとりをしているときにそれが起きて、ひとりのひととして、そしてたゆみなく続くご先祖様からの命の流れ、そして命続く流れのなかにただまっすぐ立っているひとを見て、わたしのなかはやっぱり揺れた。
強く強く揺れた。
なんて美しいんだろうと思う。
ただまっすぐ生きるだけ、そのひとの道を生きるだけ、そのひとだけの道を歩むだけ。
止まっているように見えても動き続けているその足を尊敬し、傷ついても心開き続ける姿に息を止めて見とれてしまう。
わたしが感じたことなんて、所詮わたしが感じたことに過ぎない。
でも、ひとひとりのなかにある力の大きさに、わたしはいつも、なんだかすばらしいものを感じている。
だけど、これがまだなにかも、わたしがなにを見ているのかも、感じているのかもわからない。
まだ、わからない。
これからわかるのかもしれない。
すべての殻を外す勇気をじぶんの内に持つ。
まっすぐにひとと話せるように、嘘なく言葉紡げるように。
このど真ん中に、きっと見たい未来のヒントがあるのだろうと、じぶんの何十年も先に取り組むことを想像する。
今じゃないんだけど、でもずっと先で、わたしはこれを土台にして。
とにもかくにも、美しいひと、おめでとう。
外からの見え方など、観測したひとの意識によっていかようにも変わる。
ど真ん中はいつだってたぶん、たゆみなくこのリズムが常に刻まれている。
それに出会うとき、人間として生まれてよかったということを考える。
水はとまらない。ひともとまらない。自然もとまらない。
すべて勝手に進化は起きている。
生態系のなか生きる、有機物として生きる。