しゃら、しゃら。
耳の少し遠くから、聞き慣れない音がする。
ゆっくりと頭を動かして音がなるほうに意識を向けると、黄色いパンツが見えて、ああ、一緒に泳いでいたひとの足音が一面の真っ白なサンゴを揺らしたのだと気づく。
海の中で足音はそんな風に響くのか、しゃら、しゃらと耳の奥、まだ少しだけ波の音に混ざって聴こえるような気がする。
ーー
波を切ってどんどんと前へ進む。風を受け膨らんだ帆はゆっくりと大海原を旋回しながら浜からよく見えていた無人島へと向かった。
海のうえ、青、藍、グリーンがかかった水色、ターコイズ、色の移り変わる様子に毎回新鮮な気持ちで驚いてしまう。
なんでそんなきれいなんだろうと思いながら見よう見まねで漕いでいた。
無人島につく、真っ白な浜、こんなにきれいな地面に立ったのは生まれて初めてで、深々とため息をつく。
海の色も全然違う、波打ち際ただ海に揺られ波に遊ばれながら過ごす。
帰り道は、風が真後ろから吹いた。
あっという間に浜まで着いてしまう、すーっすーっと音がするかのように、わたしたちを運ぶ船を、着く頃にはすっかり好きになっていた。
ーー
ともに時間を過ごすひとたちの心地よいこと。
風が吹き抜けるたび、ひとりひとりのことを大切そうに撫でていく。
それは離島から出ても続き、最後のお祭り騒ぎのときに終わった。
風の神様が帰っていったのだと思いながらそれを眺めていた。
わたしたちはきっとずっと前からこうやってお祭りをしていたのだろうと思った。
生まれてくる子どもの健康と幸福を願い、新たに生まれ出た赤子の奇跡を祈り、これからを背負う旅路へ祝福を贈り、老いて役目を全うしたものの一生へ尊敬を表す。
そんな風に祈りを交わしあいながら生きてきたんだろうと、そんな風にして生きていくんだろうと考えていた。
わたしのまわりをくるくると回る小さな子ども二人はまるで、何かの式神のようだった。
整った顔立ちも、まっすぐに射している大きな光も、周りの心を照らす小さな神様だと思った。
ーー
海のなか覗き込む。大きな大きなサンゴ礁にたくさんの小さな魚が泳ぐ。
こちらの固まりには青い魚、あちらの固まりには黄色の魚、もうひとつ向こうにはグレーの魚、もっと向こうには黒い魚がたくさんいた。
それぞれのサンゴ礁は全く違う雰囲気を持ち、それぞれにそれぞれの美しさがあった。
魚たちの群れ眺めながら、大きなサンゴ礁に真上から近づきすぎるとなぜか身体が震えるので、なるべくサンゴ礁とサンゴ礁の合間に浮かびながら模様を観察していた。
魚たちを眺めていれば眺めているほど、わたしは人間なのだと思った。わたしは魚じゃなくて人間なのだ、と思いながら、浜にあがり、誰かが紬ぎ織った布をかぶって眠った。
旅を通して感じていた「わたしは人間なのだ」という感覚は、少し切ないものでもあった。
でもまだそれは、誰かに説明できるものではないから言葉にならない。
ーー
「プラネタリウムよりすごいよ」気持ちのよいひとが言った言葉を笑ったことを謝るくらい、満点の星空、プラネタリウムよりすごかった。
日が沈むにつれ紫色やだいだい色、クリーム色がかったピンク色に心湧き上がったアコークロウの一時を終えたあと、その空は星でいっぱいになった。
明るい星、小さな星、わたしの目には光にしか見えないそれらを眺めながら、一筋流れるその星を見た。
わたしはいつも、誰かが話しかけてくれるのを待っていて、そのときもそのような心でそこに座って波音を聴いていた。
でも、誰の声もしないし、誰かの思いも感じなかった。それはそのまま隣のひとに耳をすませてということだとただ感じ、ただただひたすら素直に会話を重ねた。
「お金のために生きなくていい社会になったら、どういう生き方をするか」
わたしたちの話題はシンプルにそれを深めた。
戻ってそれを大切なひとに報告すると「大勢のひとがそう思っていることでしょう」と、静かに言葉を返してくれた。
ーー
3日間の大勢のひとと過ごす時間はわたしにじぶんの至らなさを感じさせた。
もともと最近はすごくそれを感じていたのだけれど、すごく素敵だと思うひとがたくさんいたから、ああこういう風にしよう、次はこういう風にしたいと、たくさん学びがあった。
でもやっぱり、それはいつでもそうだけれども、じぶんの行いがどのような波をつくるか、波紋をつくるかを今回とても感じて、ひどく悔いた。
一言がつくる輪にもいろんな輪がある。誰かを傷つけてしまうことで笑いを誘うことは、もうしてはいけないと心に決めた。
痛みを伴わないと理解できないことではないはずなのに、わたしはとても幼かった。
「ちゃんとしたい」が今までのモチベーションだったけれど、それはしばらく前に壊れていて、今あるのは「愛していることを表現したい」なのだと思った。
失敗をしたからではなく、怒られると思うからではなく、ただそれはわたしのしたい表現ではなかった、そして作り出した輪が非常に醜いものだったということが、わたしをただ傷つけた。
そしてまた、その傷は良い学びになり、これから先のわたしを変えるだろうと思った。
それでもやっぱり悔しく、また情けなくて、よく泣いた。
ーー
初日船が到着してすぐに電源が入らなくなり携帯が壊れた。
パソコンも気乗りせず置いていったので、いつぶりだろう、パソコンにも携帯にも約3日、ほぼ触らないで過ごしたことになる。
それはわたしにとって良いことだった。なくしかけていた感覚や、乱れていた軸が「何を焦点にするか」という点から整った。
仕事が好きだ、お仕事を通じて出会えるひとたちも好きだ。
でもすべては表現でなくてはならない。そうでない限りわたしは生きていたことを喜べないで死ぬことになるような気がする。
ーー
あわせて、改めて人間の身体の美しさを見た。
ひとりひとりのひとの顔が、身体がとても美しいと思った。
隙あらばわたしに「若いことが力だ」「若さに価値がある」と耳打ちする広告的な刷り込みが完全に剥がれた。
本当に生きているひとはみな美しい。
そして、本当に生きていない限り、ひとは本来の輝きを発せない。
濁らないでいること、それはひとつの貢献だと思った。
ーー
ありがとう。
帰り道、頭のなかにずっとあったのは「愛を識るひと」という言葉だった。
理由も意味もないのだと思う。
ただ、この3日間のすべてを表す言葉だと思った
身体のなかが、皮膚で区切られているわたしのなかが、あの海の色とサンゴのたてる音、一瞬一瞬変わる空の様子や、船の上であびた波のしぶき、みんなと食べたものの匂いや、抱きしめたひとの感触、こみあげる今までのご縁の連なりへのありがとうでいっぱいに満たされている。
「愛を識るひと」
わたしも、そうなりたい。
それは「清く正しくありたい」という願いではない。
ただまっすぐに、愛を識るひとでありたい。そしてそうなりたい。
ーー
あの日の夜、一番輝いていたのは木星だった。
文字にすればするほど、美しい景色は枠取られ限定的なものになってしまう。
それでも、記憶からこぼれ落ちてしまうよりも、覚えていたくて言葉に変える。
誰かに話したいからではない、未来のじぶんが何かを忘れてしまったとき思い出せるように印をのこしておく気持ちだ。
でも、あなたに話したいと思うじぶんもいないわけではなくて、それはちょっと複雑な心もようだ。
また今夜からいっぱい働く。働くことは表現すること。そうではない働きを、わたしはもうしたくない。もう、しない。