幸せってなんだろか。久しぶりにガツンと考え込む瞬間だった。
それは今夜あったイベントの後半で紹介された橘玲著「幸福の資本論」から始まった考え事。
(考え事自体はイベントの趣旨と違うものなのでイベントの話は割愛、素晴らしいイベントだった、登壇している方の言葉の響きのまっすぐさに惚れ惚れとし、今のじぶんに必要なヒントをたくさん受け取った。)

幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」
- 作者: 橘玲
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2017/06/15
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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Amazonには、下記のように紹介されてた。
作家であり、社会評論家でもある橘玲氏の集大成ともいえる内容で、初めて「ひとの幸せ」について真正面から取り組んでいます。
幸福であることを条件づけるものは、「自由」「自己表現」「共同体=絆」の3つである。
橘氏は、「幸福」は、しっかりした土台の上に設計するべしとし、その人生の「インフラストラクチャー」を前述の3つに対応させて、以下に求めます。
「金融資産(資本)」「人的資本」「社会資本」。
この3つの資本の組み合わせによって生まれる「人生の8パターン」によって、すべてのひとびとの「幸福」のカタチが説明できるとしています。社会資本(中学からの友達ネットワーク)しかない田舎のマイドルヤンキーは、「プア充」。「友だちネットワーク」から排除されるとたちまち3つとも持っていない「貧困」に陥る。金融資産がなくても、高収入を得られる職業につき、友だちや恋人がいれば、人的資本と社会資本を持っている「リア充」。人的資本と金融資産があって社会資本がないのは、「金持ち」の典型、という具合。3つの資本をすべてそろえることは難しいが、せめて2つをそろえれば「幸福」といえる状態になるのではないか。では、どうすれば2つをそろえることができるのか…、そして「幸福」になれるのか、3つの資本を解説しながらその答えを追いかけます。
この「幸せの資本論」によって揺れた心のアンテナが示した方向はネガティブだった、身体的に「なんだか嫌だ!」とわたしは思った。
でも、ポジティブな反応なのかネガティブな反応なのは大した問題ではなく、重要なのは何かしらの反応がそれに対して起きたということ。
そして、その絶対値(どのくらい揺れたか)が最近起きた出来事のなかでやや大きいものだったので、今あらためて書いて整理しようとしている。
ひとが幸福になるということ
著者は本書のなかで「ひとは幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされているわけではない。」と述べている。(上記本、位置NO.77より引用。)
幸福の資本論の前提になる考えとして、人間は神によってデザインされたわけではなく「進化」によって身体も心もつくられてきた、”進化”の目的はじぶんの遺伝子を増殖させることとある。(同ページ)
さて、本はこの前提に関する部分の記述から、その後下記の目次のように進んでいく。
目次
0 「お金持ち」と「貧乏人」の三位一体幸福論
・幸福の3つのインフラ
・「最貧困」から人生を考える
・人生の8つのパターン1 自由のための金融資産
・お金と幸福の関係
・マイナス金利の世界)2 自己実現のための人的資本
・人的資本は「富の源泉」
・クリエイティブクラスとマックジョブ
・サラリーマンという生き方
・オンリーワンでナンバーワンの戦略
・超高齢社会の唯一の戦略3 幸福のための社会資本
・友だちとはなんだろう?
・個人と間人
・うつは日本の風土病なのか
・幸福になれるフリーエージェント戦略
・「ほんとうの自分」はどこにいる?
・それでも幸福になるのは難しい
それぞれの章でなぜ、幸福になるための条件として「人的資本(”何者”としての存在確立)」「社会資本(ひととのつながり)」「金融資産(経済的自立)」があげられるのかが具体例を交えて説明されたうえで、エピローグにて幸福な人生への最適戦略が下記のように紹介される。
金融資産:「経済的独立」を実現すれば、金銭的な不安から開放され、自由な人生を手にする事ができる。
人的資本:子供の頃のキャラを天職とすることで、「ほんとうの自分」として自己実現できる。
社会資本:政治空間から貨幣空間に移ることで人間関係を選択できるようになる。(上記本、位置NO.2847より引用。)
わたしの幸福はわたしが決める
読み終えて、イベントのなかでの話に対する反応は3つの考えに整理された。
まず第一に、わたしの幸せは誰かによって定義されていいものではなく、わたしによってのみ定義されていいものであるということ。
「幸福の資本論」はあくまで著者が整理したもの、もちろん学術的な研究もたくさん根拠としてあげられていたけれども、そのひとつひとつの選択も著者本人がしたものであって、世界には当てはまらない無数の事例が存在しているはず。
いつだって、そのとき最前線だとされる研究結果はまた次の期ではくつがえされたり、内容はたえず更新されていくのだから。
でも、これは逆に言えば、「幸福とは何か」をこれだけ具体的に説明ができるというのはすごいことだということでもある。
そもそもの"幸福"の定義が重要
それは二番目の考えとして形になった、つまり、わたしの思う「幸福論」は「じぶんの幸せが何かを知っていて、その実現方法について検討がついている」ということである。
著者が整理した幸福になるための必要条件はすべて「遺伝子を増殖する」という目的と相関する。その観点から表紙のピラミッドは”貧困”が最底辺、”超充”が最高と表現されている。
つまり、わたしの定義する「幸福」が「遺伝子の増殖」でなければ、これは当てはまらない。
別に屁理屈が言いたいわけじゃない。
一番目の考え「わたしの幸せはわたしが決める」、二番目の考え「わたしにとっての幸福論」、このふたつをあわせると、今のわたしの”幸福”に対する考えが明らかになるというだけのことなのだ。
定義の背景にある前提を見つめる
著者は本の最後を「幸福な人生を目指して頑張っているときが、もっとも「幸福」なのかもしれません。」(上記本、位置NO.2859より引用。)と締めくくった。
これを読んだときにはっきり理解したのは、この「幸福」は「現在の日本の社会」のなかでのより”豊かに生きるため”の生存戦略だということ。前提とされる様々な競争や、概念が存在しているうえでの「幸福」だということ。
わたしはこの本で示されていた「幸福」が表現される舞台である「社会」に対する捉え方が著者のそれと異なっている。
いろんな出会いがその差異の要因になっている、一番大きいのは去年の今の時期に出会った非電化工房の藤村先生との出会いだろう。
藤村先生はわたしにたくさんのことを教えてくれた。
「家やエネルギーは借りなきゃいけないものでも買わなきゃいけないものでもない、じぶんでつくれるもの」
「暮らしを人質に取られずに生きていくためにまず固定費を下げて思考できる余裕をじぶんで生み出すこと」
「過去の経験やスキルからではなく、生きたい未来の情景からじぶんの生きる道を決めること」
そして、先生との出会いが引き金になり、わたしはたくさんの”実践者”の先輩方と直接お会いできる機会をいただいた。
みんな本当に豊かに生きていた、共通していたのはじぶんの幸福が何かを知っていて、それを実現する術を身に着けていたということ。
もちろん、そのひとたちの生き様を「幸福の資本論」に基づいて説明することだってできる、すべては翻訳可能だ。
だけれども、翻訳のさいに抜け漏れてしまう雰囲気、ニュアンスの部分がわたしを強烈に惹きつける、それが「この社会をどのように捉えているか」という点なのだろうと思う。
それは「この社会をつくる”人間”をどのように捉えているか」とも言い換えられる。
人間として生きる
わたしは「幸福になるために生きている」わけじゃない。わたしは今この瞬間に幸福を感じている。そのためにこの身体がある。
そして、それをよりリアルに感じるためにもっと「生きる」を取り戻したいのだ、それは古代の暮らしに戻ることではない、不自由を享受してたのしむのではない、ひとに明け渡してしまっていたところをもっとじぶんで満たしていきたい、じぶんのなかの密度を増したい。
その欲求を感じながら、そこにまた”幸福”を感じている。
ああまだ上手に説明できない。だけど今日はここで断念!
最後まで本を読んで、著者のことをすごいと本当に思った。すごい、じぶんの考えていることをこんなに具体的にひとに説明できるのってすごい。
それに比べて、わたしの最後の最後の考え事たちの稚拙なこと。ひどいね。
それでも最後の最後に感じた微妙な差異、これがこれからの道のりのヒントになるはず。
もっともっと説明できる言葉を増やすために、もっともっと経験を積もう。
読んでくださってありがとう、どこかであなたにとっての”幸福”、あなたの”幸福論”をお聞きできる機会がありますように。
ひととの差異、心のアンテナの揺れ、身体的な感覚からでしか、わたしはわたしを知ることが、わたしはわたしの”幸福”を認知することができないのだから。
あのとき心が揺れてよかった、揺れなければわたしはこの本を読まなかった。
ありがとう。