バスに揺られながら家へ帰る。
眠っても眠っても寝足りなくて、歩きながらもまぶたがくっついてしまう。
夕焼けを眺めながら部屋に向け歩けば同居人とばったり。
この暮らしの豊かさとありがたさに改めて心のなかで頭を下げた。
この暮らしは3月に終わる。
おととい、1ヶ月ぶりにパートナーと再会。
たった一晩ではなんだか物足りなくて、でもなんだかすごく満たされてしまって、今はとても穏やかな気持ち。
日々、家族のことやお金のこと、いろいろ心を一瞬揺らしていくけれど、去年のわたしに比べるととてもリズムがいい感じ。
一瞬の揺れに気を留めることもなく、それについて罪悪感を覚えるほど、わたしには何も影響がない。
家族ってなんだろう、胸のうえで眠る彼の頭を撫でつつ考えていた。
わたしとこのひとは、いつか家族になるんだろうか。では今は?
セックスを内に、ケアを内に囲っておくために婚姻制度はあるんだろうか。
わたしたち結婚したら何が変わって何が変わらないんだろうか。
わたし彼のことがとっても好きで、それはわたしを誤解しないから、まっすぐに知っていてくれるからというのがなんだかんだ一番大きい。
それは他の好きになってくれるひと、または好きになったひとへの対比でそう思うようになった。
そのひとの頭のなかで作り上げられたわたしのままでは表情ひとつ動かせないし、最初はたのしくてもどんどん息が詰まってしまう。
彼といるときは、わたしとても自由だと思う。
では彼にとっては?
わたしのことどう思ってるのか、こんなに近い関係なのに全然知らない。
それっていろんなところであることで、でもそれは取るに足らないことのようにも感じる。
一瞬一瞬に感じることがすべて。
あれ、このひと変だ。
あれ、このひと心地よい。
肩がキュッと上がってしまって息がしづらくなる体感と、肩がストンと落ちて胸が開いている体感。
居心地が良いように人間関係も最低限整えておくだけで、日々の暮らしは呼吸が楽になる。
苦手な人にも、わざわざ苦手と言いに行かなくていい。
わたしを中心において、呼吸を意識し、中心からずれなければ大して乱されることもない。
去年のわたしに教えてあげたい。
苦手な人が空間にいるだけで呼吸は浅く、眉間の間にシワをよせ、逃げるようにトイレに入っては泣いてしのいでいた。
今では笑ってしまう。
じぶんを中心に置く。
ただそれだけのシンプルなこと、身につけるまでにこんなにたくさんの経験が必要だった。
わたしは愚かだと思う。
もっと聡明であれば、もっと傷つける人も少なかっただろう。
でも、この感傷さえ行き過ぎれば自己憐憫。
自己憐憫からは何も生まれない。
怨んだって憎んだってそのひとの人生に影響がなく、わたしの人生が良くなるわけがないのとよく似てる。
わたしはわたしの感情にしか責任が持てず、わたしはわたしの幸福にしか関心が持てず、わたしはわたしの生きる道のことばかり日々考えている。
怨んでいることも憎んでいることもないことにはできない、わたしがしてきたことを白紙に戻せないのと同じこと。
もし目の前に今まで傷つけてきたひとが列になってわたしを非難しても、詫びることしかできないわけで、そのひとがわたしについて執着を持ってじぶんの時間をじぶんに使えなかったこともなかったことにはできない。
それでも、そのひとたちがまだわたしの内にいて、わたしを鈍い目で睨むからこそ、わたしはわたしの行いを省みることができるのだから、詫びand礼くらいでちょうどいいかもしれない。
そういうこと考えてしまうから、ひにあぶら、さらに嫌われてしまうのだろうけれども。
わたしだって同じだ。
もう忘れたもう忘れたと思いながら、なにか身体が固まるたびに、お前のせいだと呪ってしまう。
呪われた相手はいけしゃあしゃあ、とうに忘れて生きているのだろう。
わたしだって同じだ。
そんなじぶんの内側の醜いところと、この日々の暮らしの美しさ。
どちらもわたしなのだと思うと笑えてしまう。
誰にも白黒つけられない。
誰にも評価することなんかできない。
わたしはわたしの感情に責任をもち、わたしの記憶に「お前は間違っている」と札を突きつけ、わたしの自己憐憫癖にいい加減にしろとスワイプ重ね、わたしはわたしを幸福にすることに集中をする。
わたしが満ち満ちていなければ、わたしから生まれる言葉も絵も歌も温度さえも、誰かを欠けさせてしまうものにしかならない。
濃いものは薄いもののほうへ。
多いものは少ないもののほうへ。
重たいものはますます重たさを増す。
軽いものはその重たいもののまわり漂い、じきに消失する。
わたしはもっと密度を高めて生きていきたい。ひとつひとつの選択に、ひとつひとつのお仕事にもっと力を込めて在りたい。
ひとつひとつそれぞれの出来事はただの事象に過ぎなくて、心揺らされることが本当に減った。
そのなかでわたしの心を揺らすのは、未来のことなのだ。
暮らし、植物、身につけるもの、家、子どもたち、パートナーシップ。
心揺らされるものに正直にもっと身軽に駆け出していけるように、もっともっと創造を行えるように、わたしはわたしを整えなくては。
定点観測のように、サポーターのひととの会話によって過去の自分を思い出す。
あの頃苦しんでいたことをわたしは今笑い飛ばしている。
あの頃理解できずに泣いたことをわたしは今心から祝福できる。
あの頃馬鹿にしてしまっていたひとたちにわたしは今尊敬を送る。
どちらが先でどちらが後か、全くわからないけれど、わたしは今日もよく生きていた。
四日前に植えたゴーヤー、なかなか芽を出さないので心配して被せていた土を少しどけてなかをうかがう。
彼も静かに根を伸ばしていた。
先に根なのだ。
先に根。
種から最初に出るのは、芽ではなく根なのだ。
ハッとして土を注意深く戻し、しばらく見つめていた。
わたしの恨みつらみも根のようなもの、わたしの喜びや嬉しさもまた根のようなもの。
今日出会った女の子は、タネちゃんという名前だった。
多い根っこと書いてタネちゃん。
出会ってすぐのわたしに心を開いて、たくさんのことを伝えてくれた。
どうもありがとうと、また会えたときにハグで伝えられるといい。
とてもいい日だった。
醜くて、いいところもあって、そんなじぶんを愛してくださる人に囲まれていて、ときどき嫌われて、なかなかいい人生だなーと思ったりする日だった。