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大人になると、より寂しい / そのまま生きる

寂しい!

じぶんでも呆れて笑ってしまうくらい「寂しい」が続いている。その独特の質量はどうしたって持て余してしまう。梅雨みたいな天気と低気圧のせいかな。

そんなの10代で終わると思っていたのに、”思春期”特有のそれなんだと思っていたのに、未だに心が、身体がときどきこんな風に寂しさを訴える。

植物とじーっと向かい合って座っているときや、親しいひとといる時間、赤ちゃんを抱かせてもらっているとき、ぼーっと絵を描いているとき、歌をうたいながら歩くとき、冗談を言って笑うとき。

そんなときはどこか遠くにあるのに。

うまく心が通わなかったとき、言葉と思いがずれているとき、うまくやれないとき、そういうときにはずんずんずんと大きな足音をたててやってくる。

ひとりでいるときはそんな気持ちにならないことが多くて、誰かといるときのほうがよっぽどこいつの存在を感じる。

なんなんだろう。

いつかは終わるんだろうか。

「寂しい」で表現しているのってなんなんだろか。

この独特の満たされない感じは、誰のなかにもあるんだろか。

目の前のひとの本音が知りたいと思うとき、触れ合っている真意を知りたいと思うとき、行動の意図を汲み取りたいと願うとき。

なんで、こんな気持ちになるんだろか。

年をとったら身体のどこかからいなくなるんだとしたら、それが待ち遠しい。しかし、それと引き換えに失うものはなんだろか。

誰といたって同じこと、何回話したって同じこと、言葉の数じゃない、表情の数じゃない、文章の数じゃない。

その空間にどれだけ本当のことがあるかどうかなのだと、でもそんなこと、まずわたしがその「本当」を体現できなければ意味がない気づきなんだと、ぶわんとじぶんを背負投げしたい気分。

でもひとたび”社会”のなかに出てしまえば、そこではいっろんなレッテルがベタベタとたくさん存在していて、それはもはやレッテルというよりもスティグマと呼びたいくらいのものだけれど、それがいつの間にかまるでわたしを説明する言葉になっていく。

子どものままでいられれば、そんなもの無視して気づかないふりして生きていくことも選べるのに、外見がもはや子どもではないので、それを引き受けながら乗り越えていくしか道はないように感じている。

そういうもやもやも「寂しい」の根が包んでいる栄養分なのだ。

ーーー

明日は一ヶ月ぶりに大好きなひととの再会。

待ち遠しくて、本当に指折り数えて待っていた。

たった一晩しか一緒にいられないなんてと悪態もつきたくなるけれど、それでも会えるのがやっぱり嬉しい。

今わたしが知っているひとのなかでわたしが唯一なにも考えずに触れ合えるひと。なんのレッテルもお互いの間にない関係に高々と乾杯したい。

そんなひとがいることはとてもとても貴重なことだと、大学の始めの頃の日々とじぶんと周りのひとたちにありがとうを伝える。

奇跡的だと思う、もうどうやってそういう風に誰かを欲しくなるのか忘れてしまったような気がする。じぶんのものにしたいひとなんて誰もいないし、隣にいてほしいってどんな気持ちだったかも思い出せない。

今あるそういう気持ちは全部「そのひとに」というのが頭につく。誰でもよくない煩わしさ、相手次第だという心もとなさ。

そのひとが隣にいない日常に慣れてしまいたくて「誰でもいいのではないか」と思うときもあるんだけど、相手が何か境界線を超えてくると「あ、無理だ」とすぐに違いに気づいてしまう。

こんなに面倒くさいじぶんを、わたしが持て余してしまうじぶんを、飄々と受け流してくれるひとに、変えようとしないでいてくれるひと。

今の状態で会ったらきっと泣いてしまう。

本当は誰とでもそんな間柄で何も隠さずに生きていきたいのに、うまくそれができないじぶんの未熟さが許せず、でもそんな頭のおかしい願い事も一緒にいる間は忘れることができる。

そして、たぶん「何も隠さずに」という方法以外にきっと今思っていることが実現する道はあるんだろうとも思える余裕がわく。

そのひとがいないと生きていけないわけではなくて、もうずいぶんわたしは実は強くて、だけど本当はまだちょびっと弱いから、できたら一緒にいてほしいけど、2人の人生はまだ道が重なっていないので、なかなかそのワガママは叶いづらい。

流されるままに見たい未来の方向へ生きる今、シェアハウスが終わる3月のあとの暮らしをどうつくっていこうか。

そういうときに、ふと、彼が隣にいる暮らしをちょびっと想像したりする。

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