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じぶんと生きる

できること、できないこと、ひとつずつ紙の上並べながら全部をひっくり返したくなった。

できることもできないことも、できるときとできないときがあるだけで、できるときにはなんでもできるし、できないときにはなにもできないのだから、考えるだけ無駄だと思った。

 

やりたいこと、やりたくないこと、ひとつずつ積んで仕分けをしてみても、やっぱりひっくり返してしまいたくなった。

やりたいことのためのやりたくないことはやりたいことのうちに入るのか、やりたくないことのなかに隠れているやりたいことはやりたくないことなのかわからなくなったからだ。

 

いいところ、わるいところ、ひとつずつちぎって分けてみたけれど、これまたどうしてぐちゃぐちゃに戻してしまいたくなった。

だっていいところもあちら側からみたらわるいところで、わるいところさえもあのひとから見たらいいところだと気づいてしまったからだった。

 

世の中にはたくさんの方法論や思考法、はたまた片付け方までところせまし本棚にやり方が並ぶのに、検索すればどこかの誰かが懇切丁寧に教えてくれるのに。

わたしが知りたいことの答えはどこにものっていないのだ。そのかけらさえも見つけられないのだ。

 

久しぶりにそんな気分になる数日が続いていた。でも、その期間が今は終わったのをわたしは今このときに感じていて、それはまた幼いわたしとの統合なのであった。

 

小さい頃から眠る前のお祈りが癖だった。それは通っていた場所がそういう学びの場だったからそうなった。

お祈りはいつ頃からか神様との対話の時間になった。なぜわたしはここにいるのか、どうしてひとは悲しむと知っていて生まれてくるのか。なぜあんなにあのとき嬉しい気持ちになったのか。なぜ今こんなに寂しくて仕方ないのか。これらの思いに終わりはあるのか。終わったあとわたしはどこへいくのか。そんなことを延々と問いながら眠った。

 

ときどき恨み、ときどき癒やされ、わたしはその時間と共に大きくなった。

学びの場を離れ、「一般的」な場所で学ぶようになってから気づくとお祈りの習慣はなくなっていた。今ではときどき心がそうしたいときにするだけになった。

 

わたしが尋ねていたことひとつひとつに神様がいつも答えてくれていたのだと知ったのは最近のことだった。

 

毎日の出来事の中、神様はわたしに答えを差し出していた。その答えの解釈さえも自由だったけれど、わたしはだんだんとどれが質問の答えで、どれが質問の答えとは関係ないことなのかを見極められるようになっていた。

 

ひとつひとつの出来事はバラバラのビーズのよう、キラキラと輝くそれらをひとつの環にするのはわたしなのだ。意味をつけることもなくただ感じながら、わたしはそれを環にし、環になったそれはまたわたしの内へと帰っていく。

 

わたしはなんだか目の前のひとと対話するふりをしていつもじぶんと話しているような気がする。しかも、その「じぶんと話す」のは小さい頃にしていた神様との対話ととても同質的なもののように思う。

年を重ねていったらまた違うコミュニケーションになるんだろうか。今はまだじぶんに興味津々。これをひとは「じぶん探し」と呼ぶんだろか。呼ぶというよりも揶揄に近いと聞くたびいつも思うのだけれども。

じぶんよりも若いひとを嘲るとき、そのときそのひとは少しずつ死ぬように感じる。だってじぶんが作ってきた社会で育ったそのひとを嘲るということは、じぶんが生きてきた道を笑うこととイコールだからだ。

わたしはそれをしない、理解できてなくてもいい、共感できなくてもいい、美しいと思えなくてもいい、良いものだと思えなくてもいい。わたしが経験したいろいろなことが相手には意味のないことだったとしてもいい。

じぶんの生きてきた道を愛しているから、それをしない。相手のためでさえない心の決めごとだけれども、今このときにするこの決めごとはこれから先わたしをわたしのなかの暴力から守ってくれる。 

 

そしてじぶんなど探さないですむように、これから生まれてくるわたしの子どもには幼い頃からしっかりと対話をし、その権利に敏感でいようと思う。

抱き上げられたくないときは抱き上げられなくていい、笑いたくないときには笑わなくていい、ひとりのひととしてそこに生きていてくれればそれだけでわたしはとても嬉しいだろうと想像する。

まっすぐに存在し、相手もまたまっすぐに存在しているのだということを忘れなければ、誰もじぶんなど探さないですむのではないだろか。

 

わたしはそういう社会をつくるのだとまた途方もないことを意気込みながら、その途方もないゴールからどれだけ離れているだろう、いま目の前のことをやるしかないのだ。わたしがわたしを育てることしか、わたしの思う景色を見るための道のりはないのだと、強く認識する。

 

なんだかようやく目の前のことに心をこめるということができるようになってきた今、今までで一番生きるのがたのしい。どんな仕事のなかでも、どんな仕事の瞬間でも心は表現できるのだ。

 

しばらくはもう一度身体が小さかったあの頃のようにすべて余すことなく感じ、内なる対話を重ねていようと。

今、大きな大きな環をつくりおえそういう風に考えている。しばらくは、湧き上がる心そのままに目の前のことひとつひとつに真心をこめる暮らしを続けてみよう。

 

なんだかそれがきっと「流れに乗る」ということのような気が、今はそんな気がただしているから。

 

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