遅い昼寝をしたあとに洗濯物をパタパタと干す。ベランダからふと空を見上げれば大きな大きな白い月が雲の間から産まれていった。
「こんな遅い時間に脱水をかけてごめんなさい」と隣近所に謝りながらため息をついた。
洗濯の時間も思い通りに選択できていないなんて、と、だじゃれ調にじぶんを責めたくなったから。
なぜこんなに変わりたいと、なぜこんなに進みたいと、なぜこんなに成長したいと思うのだろう。
なぜその分だけ、こんなに変われない、こんなに進めていない、こんなに成長できていないとじぶんをなじりたくなるんだろう。
でも、そのあと息を吸い込みながらふと気づくのだ。白い柔らかい月の光に頬なでられながら、気づいていないだけでわたしはこんなに自然に変わっているのだと。
それは強烈な気づきではなかったけれど、ふんわりとわたしを包み「これでいいのだ」と囁きながら通り抜けていった。
少し前に、NHKの特番の「欲望の資本主義」を共に暮らすメンバーと栃木から滞在している藤村先生のお弟子さんと見た。
前編と後編に分かれる110分の間に、経済を政府がコントロールする社会主義が批判された頃から市場を自由にしようという流れが描かれ、今度はGAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)の存在がもはや脅威であるという批判に繋がるなか、ブロックチェーン技術による新しい通貨といった新しい存在が紹介された。
じぶんがどのような意識で資本主義を捉えているのかを認識する時間でもあり、これからのお金の使い方を改めて地域性に寄せていこうと決める時間でもあった。
途中登場したドイツの哲学家が「facebookに投稿する時間も、Eメールを送信する時間も、無自覚なだけで「労働」を繰り返しているのだ」ということを言っていた。
ハッとするじぶんがいた。わたしたちは情報を提供し、その代わりにプラットフォームを利用する。
顔を合わせずともお互いの考えを知れたり、直接的なご縁をまだ頂いていないひとの考えや生活も覗き知ることができる場だ。
一方でそのプラットフォームは「いかに買わせるか」「いかに競争を煽るか」「いかにアクセスをさせるか」という仕組みにまみれているものでもある。
いつもどおりわかりやすくそれからSNSにどう何を投稿したいと思っていたのかわからなくなった。
足りないから競争するのではなく、満ち足りたもの同士で共同的に創造を行うにはどうしたらいいんだろう。
わたしには不足があると信じながら目の前のひとに「あなたには不足はない」と伝えるひとにはなれないのだから。
考え事の種が生まれては消え、呆れるほど眠気にまみれ、わたしはこの数日浮いたり沈んだり過ごしていた。
命は有限だ。この身体にいられる時間があとどれくらいなど誰にもわからない。
そのなかでどのように生きようか、わたしがこの人生をデザインするのだ。
それを選ぶ責任だけがわたしに与えられている、他の存在を主語に置く必要などどこにもない。
喜びからそうするのなら歪みは起きないけれど、悲しみや苦しみや抑圧からそれが起きるとき、その場はそのひとはそのものは滞ってしまう。
だから、喜びから。
喜びから声をだしたい。
嬉しくて仕方なかった昨日の夜のように。
生まれて初めてのバンドは、わたしにとっても喜びをくれた。
喜びから声をあげたい。
満ち足りたもの溢れ出させてしまいたい。
なにも不足などないのだと、大きな声で歌えるように。
もうこれ以上嘘を重ねない。
できないことはできないし、できることはできるのだから。
やりたいことをやって、やりたくないことをやめながら、昨日の一歩を超えていく。
少しずつ、変われないようで変われているじぶんを喜ぶよ。
わたしは愛を知っていて、その愛から生きられるのだと思い出す日々を生き続けるよ。