NOW 500→1000

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この数日は起きている時間が短いくらい眠っている。

起きたら大切なひとが隣にいる。眠るときも隣にそのひとがいるのは居心地がよくて、うかうか考え事もできなくなってしまう。

「良し悪しだな」と思う。誰かと一緒に生きていくとできることもあれば、できなくなることもあるのだと思う。

眠っている間、夢のなかでたくさんのひとに再会した。

妙にリアルなその夢たちは、わたしの心をとてもよく揺らした。

揺らされ終わったあとは、少ししっとりとして落ち着いた心になった。

夢のなか、久しぶりに出会うひとの背に腕を回しながら、わたしは泣いていた。

久しぶりに会えたことが本当に嬉しかったのだと思う。

夢は一番大切な部分以外の記憶はぼやけてしまうけど、怖いものも嬉しいものも、一番重要な部分はなかなか忘れないようにできている。

起きている間、時間はぐんぐんと流れ、あっという間に遠いところに漂着する。

あんなにそばにいたひとも、気づけばものすごい距離のあいたどこかに存在している。

いつもそばにいてほしかったのにと拗ねるじぶんもいるけれど、いつもそばにいてもらえるように生きることはできなかったことも知っている。

全部仕方がないことなのだ。

そうときどき思う。

あんなこと言わなければよかったと思うこととか、あんなことしなければよかったとか、あんな風に振る舞わなければよかったとか、そういうことをときどき思う。

じぐざぐな点の辻褄をあわせるように、じぶんにとって都合が良い夢を見る。

夢のなかではどの間違いもゆるされていることが多い。それを”本当”と捉えることもできるけれど、それを”本当”と捉えることはどこか恐ろしいことのようにも感じてしまう。

でも夢のなかでしか解消されない何かも確かにあって、わたしは眠気に抗うこともせずもう一度眠る。

生きているとあっという間にいろんな物事がゆっくりとしたスピードで変わっていく。

桜だってそうだ。ずいぶん久しぶりに花びらが開いている様子を見たと思ったのに、気づいたらもう葉桜になっている。

ひととひととの関係も、わたしのその場その場での役割も変わっていく。

少し前のじぶんのことを恥ずかしく思ったり、嫌だなと布団から出たくなくなったり、夢に逃げ込んだりするのはきっと、それだけ今のじぶんと差異があるということ。

ひとを通して繰り返しじぶんと対話をする。

なぜそれをやりたいと思ったのか。

本当に今の暮らしに改善できるポイントはないのか。

本当の本当は何を望んでいるのか。

もう少しで手が届きそうなのに、まだ姿が見えてこないので少しむず痒い。

だけども、こうやって時折眠りながら過去を振り返ると、ずいぶん遠くまで泳いだなと思うのだ。

ただ、思うのだ。

そして、泳いでこられたじぶんを誇らしく思う。

その「誇らしさ」は、おそらくじぶん以外の誰にも理解されない誇らしさ。

だって、じぶんの道のりの尊さを知ってるのはじぶんだけだ。

あんなに寂しかったとか、あんなに悔しかったとか、あんなに怒っていたとか、あんなに必死だったとか。

過去のそういう瞬間瞬間の心の揺れを、根っこからの決断をしたじぶんへの誇らしさ。

わたしがわたしを知っていればそれでいいと心から思えたときの安心感と出会うのははじめてのこと。

それはじぶんへのリスペクトでもあるし、信頼でもある。

そして、それは溢れ出して、目の前のひとに対しても湧き上がる。

わたしはこのひとのことを何も知らないのだ。

わたしは、このひとが今までしてきた決断や、仕事や、経験や、恋や、苦しかった出来事を何も知らないのだ。

どんなに嫌いなひとも、好きになれないと感じるひとも、ウマが合わないひとも、みんなこうやって生きているのだと、当たり前のことを理解し終える。

少しいい気分になった。

これを書き終えるに3日過ぎているのだけれど、書き始めた日と違って今日はたくさん起きて、たくさん仕事をして、妙にウキウキとした日になった。

こうやってだんだんと気分が変わり、気分の浮き沈みとは関係なく季節は進み、進んだ先の季節で想像もできない未来と出会うのだろう。

人生いい感じだ。

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