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「体感」からじぶんを知る

じぶんの言葉を持つことはじぶんの世界をつくることだと気づいてからしばらくが経った。

以前よりも積極的に今じぶんが何を感じているのか、何を考えているのか、なぜそう感じたのか、なぜそう考えたのか、それらに対して分析を深めている。

その過程のなかでひとつのキーになっているのは「体感」だ。

体感からじぶんを知る

わたしの体の感覚は大きく分けると「ふわふわと心地よい状態」「ぴりぴりと落ち着かない状態」の二種類がある。

なにかひとつの出来事を前に何らかの選択を迫られているとき、その結果がどのようなものになるかはたいていこの体感によって導かれている。

体感として「ふわふわと心地よい状態」があるときには、その出来事に対するその選択はじぶん自身にとっても周りにとっても有益である場合が多く、「ぴりぴりとして落ち着かない状態」に身体が置かれるとき、その選択は痛みを伴う学びに繋がっていく場合が多い。

もちろんひとそれぞれ体感の言語化に差異はあるだろうけれど、それでも「体感」に意識を置くことは「じぶんを生きる」「じぶんの人生を創造する」という点でとても重要なことなのだと思う。

理由はとてもシンプルだ。その体感は、出来事に対してのじぶんの本音を明らかにするためのはっきりとしたヒントになりうるからである。

出来事ごとにデータを貯める

「ふわふわと心地よい状態」はデータを俯瞰的に捉えることで、全体的な人生の方向へのヒントに変わる。

単体で分析するのは逆に難しいように感じる。それほどまでに「幸せだなぁ」「嬉しいなぁ」「やったー!」みたいなhappyな言葉って瞬間的に出てしまう。

逆に「ぴりぴりと落ち着かない状態」はそれひとつひとつがとても有力なデータだ。

しかも一回一回ちゃんと見つめることを重ねると、日常のなかで同じような不快な思いをする回数が激減するというおまけ付き。

これはいい感じな人生をenjoyするためにとても有力な材料になる。

感情〜集合意識まで

なぜその出来事に対して、もしくはその状況に対してじぶんが「ぴりぴりと落ち着かない状態」にあるのか。身体をじぶんでスキャンするようなイメージで、ゆっくりと潜りながら探っていく。

どうしてだろう?なんでだろう?泣いているばかりで状況の説明ができない子どもに対してゆっくりと問いかけるようなテンションでじぶんに接する。

(これがまだ上手にひとりでできないうちはセラピストやカウンセラーの力をかりる。じぶんとフラットな関係が築けていないとき、このやりとりはただ単に何かを感じているじぶんを逆に責めることに繋がったり、他のひとと比べて落ち込むといったエネルギーの無駄遣いが起きやすい。)

表面的な感情の揺れを感じ、中心に近い部分にある記憶のなかにある反応の種を感じ、さらに深層部にある世代や教育、家族や血筋として受け継がれてきたこだわりやしがらみに振れ、もっともっと奥底に流れている社会的な集合意識に思いを馳せる。

身体的なイメージでいうと、まず頭から胸のあたりに意識をおろし、次にお腹、そして丹田のあたりと下っていくイメージ。

どんどん下って身体の枠を抜け、地面の下、マグマを想像しながら地球の中心へと向かう頃には集合意識へとポイントが移っているような気がする。

どの「ぴりぴりと落ち着かない状態」も、最終的には集合意識へと到達することが多い。

それほどまでにひとは社会的な生き物だということかもしれないし、それほどまでにわたしたちは「社会」から逃れられないとも言えるかもしれない。

集合意識を捉える

数十年スパンで変化してきた時代。

数百年単位で変容してきた歴史。

そのなかに必ずある「○○●●でなければならない」というルールや、「○○のために●●であるべきだ」という思い込み、○○市場において必要だった●●というニーズを持つひとびと。

いろんな集合的なブロックが、そのゾーンには存在している。

この話はまだまだじぶんでも感覚値でしかなく、なかなかどう根拠づけて話せばいいのかわからない内容でもある。

それでも明確に言えるのは、気づいたら変わるということ。

気づくと「じぶん観」が変わる

集合意識のなかにじぶんの不快感の要因があると気づけたら、日常のなかに隠れている「他責」が終わるのだ。

「他責」が終わったときに何が起きるかというと、行動が変わる。

文句はじぶんが主語では言えない。文句になって出そうだった言葉はアイデアとなり口から出ていく。

それを繰り返すうちに、気づけば「じぶん観」が変わる。本当の意味での「わたし」が登場する。

誰かがつくりあげた社会に組み込まれたじぶんという「じぶん観」ではなく、得体のしれない社会というものを構成している世界にたったひとりのじぶんという「じぶん観」へと切り替わるのだと思う。

その過程を経て出された本音は、本当に尊いものだと思う。

これは誰にも侵されてはならないし、これを大切にし合うことこそ、人間が人間として発展できる唯一の道だと感じている。

じぶんを生きる理由

じぶんを生きなくていいと思うほどには人生は短くない。

じぶんでなくてもいいのならなぜ寿命が100年もあるのだろうか。

人間として生まれ、人間として死ぬ。

ただの「生き物」としての一生を体験するために生まれたのであれば、寿命は短くても構わない。遺伝によって進化していく回数が増えたほうが、生物としては発展の可能性があるかもしれない。

でも、わたしは人間として生まれ、人間として死ぬ。なぜ、他の生き物よりも弱いように見える人間の個体がこんなに長く生きるのか。どうして、人間の生き方がこの星に影響を与えるのか。

この問いかけへの答えになるのが「社会」、つまり、人と人とが繋がって生きていく意味だ。

それぞれの差異が明確になればなるほど、関係によって生み出されるものは創造のベクトルへ移っていく。

無論、それぞれの差異が曖昧になればなるほどはっきりとした個とぼんやりとした集合という構図で、権力関係のなかただただ消費される集団ができあがっていく。

だからというわけではないけれど、わたしはやっぱり「じぶんを生きる」という言葉にとっても心が踊る。

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帰ってきたら、一緒に暮らすふたりとも人生のフェーズが変容の兆し。内面へと潜っていく過程や瞬間に湧く感情をシェアできるひとがまわりにたくさんいるありがたさを感じています。

ありがとうー〜!