久しぶりにじぶんがこれまで書いたものを読んだ。なんだかまるで調査報告書みたいだと思って笑った。
地球で人間として生活をしています。
社会のなかで日髙春奈を生きています。
そんなふざけたナレーションをつけながら、過去の瞬間を閉じ込めた文章を読んだ。
じぶんのことなのに、なんだか他人事。なのにときどきとんでもなく感情が揺さぶられたりするのが不思議だ。
ときどき「読んだよ」「読んでいるよ」と声をかけてくれる人たちは、どんな顔でこれを読んだのだろう。
書き起こしのお仕事をしていると、いろいろなひとが「誰を喜ばせられるか」を戦略的に考え発信をしている光景によく出会う。
読んでくれる人に申し訳なく思うほど、わたしの書くものには「誰」がいない。
それでも、包み隠さず書くこれらは誰かにとってじぶんの位置を知るための点の1つ、ボールを当てる壁の一部になるのかもしれないと思うことがある。
ときどき、ぽつりぽつり「わたしはこう思った」「わたしはこう感じた」と、記事について話をしてくれるひとのおかげでそう思う。
わたしはそれを聞くのが好きだ。
そして聞きながら思うのだ。
みんなじぶんの人生の主なんだなぁ、と。
どんな風に感じてもいい。
どんなことを思ってもいい。
その身体、その顔、その声、その心。
どれを取っても、この世に一人しかいないひと。唯一無二のひと。
わたしが見たい景色とあなたのそれは違うかもしれないし、このひと何言ってんだと思うときももちろんある。くそう!と地団太踏むときも、トイレで舌打ちすることもある。
それでも、さまざまな樹々が重なり合い森を形作るように、たくさんの種類の昆虫たちが生態系を支えるように、生き物の価値というのはきっと、その差異から生まれる多様性なんだろう。
ちょっと飛びすぎ?
クラスのなかで何か問題が起きたとき、職場で何かトラブルが発生したとき、じぶんの視点だけでは、じぶんの思いつくアイデアだけでは限りがあるなと思う。
そういう感覚だ。気にくわない相手だったとしても、すんごい良い意見を持ってたりするのだ。
たぶん、わたしとあなたの違いの分だけ、わたしが生きてる理由があって、違うから生きてるのにまるで同じかのように大切にしあえることに喜びを抱く。
他の人の感じたことを否定したくなるとき、他の人の考え事を批判したくなるとき、そこにあるのは余裕のなさと頑なさ、あとはじぶんのなかにある暴力を無視する傲慢さだろう。
余裕のなさは暮らしのリズムを見直すことで、頑なさは弱さをさらけ出し助けを求めることで、傲慢さは「負けないぞ!」と決めることで解決できることが最近わかってきた。
感じて、動いて、見直して、また動いて。
そうやって生きてると、ひとと違うことが喜びになる。そしてその違いを尊重するからこそ、同じときにまた一層の喜びが起きる。
根本にこの「差異」の大切さを覚えておければ、じぶんの人生の「主」としていられる気がしている。
占いも、他者の言葉も、偉い人からのコメントも、何もかもわたしより上には置かない。
言葉の下にじぶんがいてはいけない。
概念に使われてはいけない。
言葉も概念も、じぶんの感覚を説明するために、ひとに伝えるために用いるもの。
制度はみんなを助けるためにあるもの。
それらの下にじぶんを置かない。
いろんな言い訳でその状態をごまかさない。
ひとつひとつ解決して、ちょっとずつでも、じぶんの人生のたったひとりの主人として、前を見ていたい。
反応は反射的に起きてしまい改善に時間がかかるけれど、この人生のなかどう在るかを決めるのも、どう在りたいかを決めるのも、わたし以外のひとに委ねてはだめだ、一瞬でも、だめだ。
決めて動いて、また感じて。
新しい視点をいつもありがとう。
今の在り方を応援してくれてありがとう。