「関係性」を手放すことにした。
そういえば人生の師匠と決めている非電化工房の藤村先生が言ったことがあった。
「関係性って言葉は嫌いですね。」
なぜ関係”性”なのか、”関係"ではだめなのか。
そのときは、先生の言語感覚は繊細だなと珍しく特に共感しなかったことを覚えている。
でも、これを手放すと決めたとき、その言葉の違いを理解した。
「関係」と「関係性」
関係は、特定の相手との間に発生する。たとえば両親との間に親と子。先生と学ぶ側で先生と生徒。仕事では上の立場と下の立場で上司と部下。
そんな風に、関係は誰かと誰かの間にできるものを意味する。
では、関係性とはなにか。
これは相手との関係にラベリングをしたうえで解釈をするということだと思う。
「親と子という関係を持つ両者にとってのこの関係の持つ意味とは」というのが関係性ではないか。
「先生と生徒という関係のなかで」とも言い換えられる。「上司と部下の関係において」でもいいかもしれない。
つまり、関係の性質について論じなければならないとき、わたしたちは「関係性」という言葉を用いるのだろう。
だがこの言葉には二重のベールのようなものがあり、重なったベールは思考の透明性を奪うのだ。
そもそも「関係」は存在しない
ーある人間と人間がいる。
この情報のみであれば両者の関係は”対等”であり、そこにはお互いに役割が生じていないように受け取れる。
ではここに情報を足してみよう。
ー赤ちゃんとお母さんがいる。
関係が出現した。
赤ちゃんには、そのお母さんの子どもという”立場”が与えられ、お母さんには赤ちゃんの親という立場と「世話をする」という”役割”が与えられる。
しかし、これらの立場や役割は後付けの情報が出現しなかった場合には存在し得ないものなのだ。
そして、これらの立場や役割が判断できない状況において、そこには「関係」もまた出現しない。ひととひとの間の関係とは、それくらいフワフワとしたものなのではないだろうか。
架空の関係から生じる「期待」
そのようなふっと吹いたらぴゅーっと飛ぶレベルの関係を根拠にして、わたしたちは相手に期待をする。
親なんだからこれくらいしてくれるだろう。
子どもなんだからこう振舞ってしかるべきだ。
先生なんだから、生徒なんだから、上司、部下、友人、恋人、、、。
ラベルがつけられている「関係」には、その舞台である社会それぞれのなかの規範に縛られる形で役割に紐付けられた「期待」が隠されている。
おそらく、その期待が「関係性」という言葉で表現されているのではないかと今は考えている。
わたしとあなたの関係性のなかでは、とか。
その期待をちょっとペラペラのプラスチックで包むようにして相手に伝えるのが、関係性という言葉だ。
"関係性"を手放す
そのひととじぶんの間にある信頼や愛情を表現するとき(たとえば冒頭で藤村先生を師匠としたように)、そこには便宜上、そのときの言語圏に沿うようなラベリングを使う余地がある。
だけれども、気づかぬうちに関係の定義に従属し、しかもそこで社会規範に従ってソンタクなど繰り返してしまえば、あっという間に心が麻痺する状態になってしまう。
本来の人間的な尊厳が保たれないとき、ひとはじぶんの感受性を殺すことでそれに適応する習性があるからだ。
そう、だから。
だから、わたしはうまくいくかはわからないけれど、一旦「関係性」という言葉をじぶんの辞書から消してみようと思う。
そこに詰まる関係への期待、関係の意味への架空の共通認識、それらをもとにして生じる相手との契約状態。
そういうものがもうわたしの人生には必要ないと感じたからだ。
別に敬語をやめます!とか、仕事で指示は受けません!とかそんな見当違いなことをしたいわけじゃない。
ただ心のなかでひっそりとやめるのだ。
あなたの思う子としての役割を。
あなたの思う学ぶ側としての特性を。
あなたの思う女としての性質を。
あなたの思う年下としてのあり方を。
同時に、あなたへのそれも、もうやめる。
わたしの思う友人としての役割を。
わたしの思う恋人としての特性を。
わたしの思う男としての性質を。
わたしの思う年下としてのあり方を。
そんなものも、もうやめる。
ただまっすぐに人間として、あなたの横に立っていよう。それは皮膚を超えてあなたに届くかはわからないけれど、真心をこめてあなたとわたしを見つめよう。