「子どもとのコミュニケーションが独特だよね」
と褒めてもらった、友人に。
とっても嬉しくて、温泉のなかでポッとなった。
2人並んでひのきのお風呂に浸かりながらべらべらと話す。
彼女があまりにもナチュラルに褒めてくれるので、本当に嬉しくなった。
「相手をリスペクトしてるのがすごく伝わった」
じぶんが無意識に心がけていることを言語化されて、なんだか照れくさくなった。
温泉に浸かっているのでのぼせているのか、褒められてのぼせているのか。
どっちにしろ調子に乗って更にぺらぺらと話す。
わたしと彼女では気になるところが違うようで、それはどうやら過去に要因があるかもしれないという話が面白かった。
わたしは「子どもが集合的に子どもとして扱われるのが我慢ならない」というところが強い。
彼女は「しっかりと感情が表現され、ストレスが解消されているかが気になる」と言っていた。
結局は過去とリンクしている。
でもそれってつまらないことではないなと思った。
それぞれの年上のひとが、それぞれの過去の経験をふまえたうえでそのひとが良いと思ったことをする。
それを受け取る年下のひとは、出会うひとごとに違うものを受け取るわけで、それはとても健全だと思うのだ。
子どもは「かわいい」とか「健気」とか「きれい」とか、いわゆる”天使的”なものに紐付けられやすい。
でも本来、天使でも悪魔でもない。そこにあるのはただそのひとの人格だ。
赤ちゃんと注意深くコミュニケーションをとるとよくよくよくわかるけれど、生まれて数ヶ月だろうとそこには人格がある。
話している内容は理解しているし、言葉を発したいけれどそれはできないので全身で非言語なコミュニケーションを取ろうとしている。
それに気づかずに、大人が思う集合的な「子ども」像や「赤ちゃん」像を押し付けて、上から言葉を投げ続けるひともいる。
そういうひとはだんだん減っていくと思うんだけど、じぶんはそれをしたくないので、今日だって昨日だって明日だって、ただただ目の前のひとに集中してコミュニケーションをとる。
理由なんかシンプルで、わたしがそうされて嬉しかったし、そうされなかったとき悔しかったからだ。
「わたしはされなかったから人にもしたくない!」も別にいい。その反応もかわいいと思う。でも、わたしはもう十分に、そういう心を塗り替えてもらえるくらい、いろんなひとから心を頂いた。
だからたぶん、すごく素直にそうしたいと思うんだろうなと思う。
そしてその決意のもと行ったコミュニケーションで、目の前の小さなひとが少しでも嬉しい気持ちになった様子がみられると、本当に嬉しい気持ちになるので、それでいい。
親と合わなくたって、ここがあるから大丈夫だよと言える場所を増やしたい。
子どもと合わなくたって全然問題ないんだよ、ここがあるよ、と言える場所を増やしたい。
小さいひとを愛することは、そのまま大きなひとのなかにいる小さなひとを愛することでもあるんだけど、それはまだ感覚的なものなので言葉にできない。