NOW 500→1000

2019

年が明けた。

感じていることはたくさんあるけれど、ひとつ選択をしたことがある。

解釈をやめること

何かを、誰かを、過去を、未来を。

いつもまるで考える人のようにポーズをとっては意味を知ろうとさまざまな角度から眺め、咀嚼し、意味づけを行ってきた。

意味づけとは言い換えると解釈である。

Aという物事、Bというひと、Cという記憶、Dという予想、それぞれの点に対して解釈を行うこと。それをやめると決めた。

わたしの人生は1995からはじまり、それは流れとして1995〜2006,2006〜2011,2011〜2017,2017〜というように分かれている。

この分かれについて認識したのは去年だった、2019は2018の流れの次になっている、断絶は起きていない。

この感覚がひとにも当てはまるかどうかはわからないけれど、それぞれのひとの一生にもまた季節のような、なにかリズムのようなものがあり、それは本来なんらかのメソッドに乗っ取らなくても直感的に知れるものなのだろう。

と、いうようなことに対してもだ。

なぜ分かれていると感じるのか。なぜそれを文章という形でひとに吐露するのか。なぜそれを感じたのか。なぜそれを感じようと決めたのか。そのように考えることは、エネルギーの消費、いや浪費だ。

意味づけに意味はない。ひとつのまっさらな点、その点をこねくり回して解釈を加え、したり顔で話すよりも、ひとつひとつの直観に従いながら行動を重ねる年にする。

理由に意味はない。ただそれを感じ、見極め、腹に落とし、また進むことだけに意味がある。

過去のエピソードは、点としてのストーリーの価値はあれど、もうその価値をどのように高めるかと思案する必要はない。

点としての完璧さ、美しさを感じ取れたなら、あとは俯瞰して眺めるだけ。

あの人の行動も、あのときの言葉も、あの状況も、果ては目の前の相手がどのような人物であるかまで、そこには解釈は必要ない。

瞬時にわかることだけがすべて。

余計なものを加えずに身体的に理解をする。

なぜ、どうしても問い直したくなったときはただ静かにその問いを心に浮かべ、じぶんの外側に放ち、何事もなかったかのように日常を送る。

数時間、数日、数ヶ月のうちに、誰かや何かの言葉のなかにその答えを見つける。

どれだけ問いをシンプルにできるかにかかってはいるが、問いをシンプルにしようという過程のなかで、じぶんの何がどう滞っているか、どの知識が不足しているか、何の機会が必要か、それらがハッキリしていく。

この繰り返しの先に、本体がある。

誰かの価値観、誰かの規範、誰かの概念、誰かの制度。その形にじぶんを合わせようと、シンデレラの姉妹のような真似はしないでいい。

そう理解するための2017,2018を過ごしてきたはずだから。

もう土台は整っていて、3月までにゆっくりと解釈をやめることへのトライを重ね、4月にはそのように生きられるようになっているだろう。

そもそもすべては揺らぎの上にあり、答えは過去にも未来にもなく、どのように生きるかではなくどのように在るかが大切で、もうすでにそれらを理解しきり、そのように在るかのように振る舞うことが2019の道を照らす術になると、今はなんとなく思っている。

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ひょんなことから実家の片付けが始まり、出るわ出るわ過去の写真や手紙など。ぐらっとするほど本質的な言葉が目につき、とても体力をつかう。

でもこれを終えて沖縄に戻ったら、さらに息がしやすくなるだろうなと思いながら、一番見たくないものに光をあてる作業を続けている。