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月を浴びると

ひとりぼっちで大きな月を見上げていた。

今回の満月の光はとてもパワフルに感じるのに、身体的な感覚は柔らかなものを受けとっているので不思議だな。

月を見上げていると、今抱えている思いや、今のじぶんの立ち位置がはっきりとする、他のものが削ぎ落とされるのだ。

月を見る前は深く長い眠りのなかにいた。たくさんの夢を見た。夢に思いもよらぬひとが出てくると、目覚めたあとも思い出の渦に飲み込まれてしまうよう。

浜比嘉島の奥のほうの海の波打ち際、大きな石にザバーン!と波が打ってはその余韻もないように形をなくし次の形へと。あの強さのよう、強制的に形をなくさせられるよう、洗濯機のなかでぐるぐると回されるよう。

なかなか記憶のなかの誰かというのは手強いね。それでも、ひとと出会いまた分かれることは避けられず、関係がなくなったあともそのひとを心のどこかに住まわせながら歳を重ねる。

月の光を浴びている間、その前に見た夢の不可解さや、その刺激で久しぶりにアクセスした記憶によって波揺らされた心がゆっくりと、でもたしかに穏やかになっていった。

然るべきタイミングに、然るべきことができるように。

然るべきタイミングで、その役目をしっかりと思い出し、また果たせるように。

わたしはこの場所を愛していて、また、わたしはわたしを愛しています。

そんな言葉がすっと口から出ていった。

わたしはわたしを愛しています、かー。

口から出ていったあと、月へとその言葉がどんぶらこどんぶらこ向かう間、首を傾げてしまった。

大学生の頃に所属していた体操部に新しい道具が届いたそう。なんと卒業生の先輩が直々に持って行ってくださったそう。

わたし最初その行動の素敵さを思いやる余裕もなく、わ!やりたい!と、反応をFacebookでしてしまった。個人で、というイメージはなかったけれど、体育館で練習したあとはあの子やあの子の前でやったら喜ぶだろうなぁと、そんな気持ちだった。あまり後輩思いとはいえないなと、その先輩のすばらしい行動にじぶんを省みたりして。

日々そんなことの繰り返しなので、どちらかというと、君はねー本当にねーと、ため息をついている。

だけど、その一方で去年の今頃より、一昨年の今頃よりずっとわたしは幸せで、ずっとわたしのことを愛している。じぶんでじぶんを愛してるだなんて気恥ずかしいのだけれど、でも、あえてはっきりと言葉にしたい。

表面の気持ちの右往左往なんてどうでもいいよ。その奥に意図しなくても脈打つものがある。そこからなんでも溢れ出す、エネルギーの源だ。

そことちゃんと繋がるために、きっと呪文が必要で、それがわたしはわたしを愛していますだったのかもしれないね。

そんなことしなくてもハッピーに生きられるひともたくさんいて、この言葉じゃ開かない人もたくさんいて、でも、わたしのまわりの数人の人はもしかしたら同じかもしれない。

帰り道、できればこの光の下眠りたかったけどいかんせん寒すぎるので撤退だと、少しとぼとぼとしながら歩いた。

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これは昨日の月の写真。

太陽も月も樹々たちも風も雲もなんでもかんでも、毎日違う言葉で同じものを発している。

帰り道歩きながら、お布団にたどり着いた今も、わたしはちゃんと受け取れていますかと、どこに尋ねるでもなく思っている。

それでも、ひとの間にいて混乱するとき、くたびれ果てて眠るとき、ひと以外のものに生かされている感覚を、遠く宇宙の星の並びの正確さに、引き合う力の重たさの完璧な様子に、強く持つ。

わたしはわたしを愛しているし、同じような感覚でこの場を愛しているのだと思う。