言葉がまわる。
ヨギ、チョギ、コギ。ここ、そこ、あそこ。
灯火たよりに人々わらう。
歌い踊り飲みわらう。
リズムを刻み、からだで喜ぶ。
命が踊る様をみる。
納豆をマルシェに出品した優しい彼。
お客さんに、韓国にはよく似た食べものがあるのに、なぜ納豆という名前で出している?と怒られたそう。
そのとき、その怒った人があえてチョウセンジン!というワードを用いたらしい。
日本で見聞きしたヘイトスピーチを思いし、嫌な気持ちになる。
英語、韓国語、日本語、言葉入り乱れながら社会の話。
やがて沖縄の話が始まる。
Googleマップを見せながら、ここは基地、ここは基地じゃない、ひとつずつ話す。
琉球大学を見せたとき、なぜ琉球?尋ねられ、その所以を話す、あわせてパスポートが必要だったあの頃の話も。
そういえば今でもパスポートについての冗談を言うオジサンがいるけれど、ただただバカなんだなと思って、一ミリも笑わずに、何がおかしいか尋ね返してしまう。
宴と真剣な話が織りなす不思議な空間。
辺野古の近くで村づくりをしている友人のことを思い出していた。
柔らかな炎がお互いの横顔を照らし、自然と心開き豊かな会話リズムよく重なっていく。
よその国でも、あの心地よさ、あの美しい時間が体験できるのかと思うと同時に、韓国がもうよその国ではなく友だちの暮らす国に変わっているのに気づく。
カホンでセッションしているとよくわかるけど、ひとりひとり持っているリズムは違う。
そのリズムにわずかな傾向があり、その傾向がわたしと、みんなで違う。
その違いをわたしは気に入った、面白いと思った。
忘れたくなくて文にする。
耳に残るは、北と南で別れてしまったことで両親に会えなくなったひとが書いた歌。
なんだか人間は、本当に本当に遠回りをしながら、真の意味で人間になろうとしているように、ここにいると思う。
エネルギーも、資源も、暮らし方も、コミュニケーションも、経済も、何もかも、すべて。
今も遠回りの途中。
でも、ひとりひとりが勇気を持ってストップし、逆回転を始めることが大事。
最初は対流が起きて、少ししんどくても、やがてそれがメインストリームに。
だから、大丈夫。
ケンチャナ、ケンチャナヨ。