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ひとを「羨ましい」と思うとき、ひとから「羨ましい」と思われるとき

2018年は急にひとから「羨ましい」と言われる年だった。

(まだ終わってないけど)

いままで「羨ましい」と面と向かって言われたことなどなかったので、文字通り面食らった。羨ましいとはなんぞや。

「羨ましい」をぶつけてくださる方は女性もいれば男性もいて、年上のひともいれば年下のひともいた。サラリとしたそれもあれば、具合が悪くなるようなドロドロとしたそれもあった。

「羨ましい」とはなんぞや。

羨ましいという言葉の意味は、感情の起きる意味は、そしてこの経験を通してわたしは何を学ぼうとしているのか、それらばかりに興味がある。

「羨ましい」をぶつけられるとき、たいてい最初は敵意だ。本人が意識的、無意識的であれ、表情や所作、さまざまなところからそれはにじむ。たいていそのあとにそのひとの内面で変化が起きて、突然「羨ましかった」と告げられるパターンが多かった。

羨ましかった、と過去形で伝えるとき、過去の敵意など隠し通せたかもう終わったことかのように当人はスッキリした顔をして、心なしか以前よりも輝いている。

言われた側としては、そうですかとしか言いようがない。羨ましい、羨ましかった。わたしの人生には何も関係のない、他者のなかで起きている一連の感情の流れである。

嫉妬はされて気持ちいいと思うくらいがちょうどいい」と尊敬している魔女のような女のひとが言った。そうかそうかと手を叩いた。そのとき、向けられていると感じた敵意がわたしを通り越して当人に返っていく映像をみた。

相手に対して羨ましいと感じるとき、(じぶんは)その状態ではないとじぶんに対して判断している。矢印は人を通り抜けてじぶんへと返っていく。傷ついたのも、傷つけたのもじぶん。でも、傷つかないとわからないことも、傷つけないとわからないこともあるもんな。

今ではすっかり構わなくなった。「羨ましい」と言われたときや、なにかを感じたときはそっと心のなかで避ける。そのほうが、その感情がそのひとへと返る速度がはやくなるような気がするからだ。

ときおりあまりにも見当違いだと苛立ちを感じる、とはいえ愛嬌に関しては生まれ持ったものなので羨ましいと思われたところでどうしようもない。なんにせよ相手と戦おうとしたり、やり返したいという思いはなにも生み出さず、むしろべたべたしたものに絡め取られてしまうような気もするのでどうしようもないかもしれない。

反対に、わたしがこの経験から学んだことはとてもシンプルだった。「羨ましい」はヒントでしかない。

ポジティブとネガティブを両極に置いた数直線のうえ、重要なのは動いた方向ではなく、絶対値、つまり0地点からの距離なのだ。

0地点からの距離が、ポジ方向であれネガ方向であれ、その距離だけが重要で、その距離にふさわしい良い気づきがそこには起きる。

わたしが生きている目的はいくつかあるが、そのうちのひとつが「感じ切る」ことだと思う。あますことなく感じ切る、嬉しいこと、悲しいこと、切ないこと、喜ばしいこと、美しいもの、醜いもの、すべてを感じ切るために生きている。

「感じ切る」ということに焦点をあわせると生きるのが楽になるように思う。

「羨ましい」をきちんと感じ切る、そうするとネガ方向に動いてはいるものの、感情がわいたばかりのときには見えなかったことが見えるようになる、それが距離であり絶対値ともいえる。最初は見えない、嵐のなかでは方向しかわからない。

きちんと感じ切ることができたら、次に分析をする。

なぜ、羨ましいと感じたか。どこに羨ましいと感じたか。羨ましいと感じているとき身体的な感覚はどこにあったか。痛みは伴うか、過去の記憶と連動しているか、集合意識(世の中の常識や、世代的に持っている課題、共通的な縛り)と関連はあるか。

物心ついたときからやっているからもうすでに一瞬で答えはでるような感じ、これはもしかしたら訓練が必要なことなのかもしれないと、感情をぶつけては去るひとたちを眺めていると思うときもある。

最近だととんでもなく顔が小さくきれいでスタイルも良くて性格も良い人に「羨ましい」と思った。

あんなにきれいだったら悩むこともないだろうなとそう思った。なにに?と思ったらそのときは強烈な片思いをしていた最中だったので、あんな顔だったらきっと好かれるだろうなというような考え事だった。

でもそのあとに、それはじぶんが好きになった相手に対してとても失礼なことだったと思い知る。そして、じぶんへも失礼だったと。くわえて、そのきれいなひとにも失礼だったと、心の中で何度も謝った。

また、あわせていえば、「羨ましい」で終わらせることは一種の怠慢でもあったなと思う。理由は他にもたくさんある、いくらでも変われる、変わると決めたら変わる、その前の前の前の段階が「羨ましい」なのかもしれない。

それらすべてを受け止め終え、じぶんの身体で力いっぱい生きるのだ!と決めたあと、働いているお洋服屋さんでプロのカメラマンの方に写真を撮っていただくという機会をプレゼントされた。

そして大好きなオーナーから「あなたの身体は健康的でとても好きだよ」「あなたの顔はお化粧をしなくてもきれいだよ」言葉にしてちゃんと褒めてもらった。

わたしとても嬉しかった。

羨ましいに潜りきり、底を見つめ、しっかりとすべてを理解したうえで水面にあがってこられてよかったと思った。その渦中はとても苦しくて、もう死んでしまうんじゃないかと思ったけど、戻ってきてよかった。

わたしも、ちゃんとひとに伝えようと思った、そのひとの横顔を美しいと思ったときに、そのひとの身体の輪郭が美しいと思ったときに、そのひとの精神がきらり光っている様子を、必ず言葉にして伝えようと、そういうことを思った。

嘘はつけないから、嘘はつかないから、ちゃんと伝えるべきときにちゃんとぴったりの言葉で賞賛を贈れるようになろうと決めた。

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わかるまで何度でも違う言葉で届けられる、あなたはそのままで素晴らしいと、造形も、精神も。