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片思い

カタオモイという言葉があるけれど、あれは本当に自分自身を見せつけられる時間だと思う。

そのひとに好かれるためだけに存在するわけじゃない。のに、そのひとに好かれるかどうかが気になってしまう。

でも本当に意味がない。

わたしの人生はわたしのもので、他の誰のものでもないわたしのものだ。そのひとに割いている時間はじぶんのものではないから、とても勿体ない。

しかし、それはその一方でまったく逆の意味も内包している。

なぜならば、わたしのこの命はまったくもってわたしのものではなく、すべてから成っているからだ。

そのひととの出会いもまたとても貴重なもので、わたしにとっても世の中にとっても大きな意味があるのだ。

その狭間ど真ん中で生きられていると、なんとなく調子がいい。でも、この片思いについてはまだそう思えない、苛立ちを感じてしまう。つまり、相手がじぶんのなかで重たすぎるのだ。

誰か、を主語にしたくない。

なのに、とてもとても好きで、あたまのなかにいつもいて、本当に嫌だ。

過去の美しかった景色を何度も何度も繰り返し頭の中で再生してしまう。あのときの匂い、あのときの音、すべてが完璧で、美しくて、なかなか身体から出て行ってくれない。

まるでわたしの思うようにならないこんな思いはしたくない。

でもその一方で、これもまた同時に真逆なんだけれど、そのひとの存在との出会いのおかげで、わたしはよりシンプルになって生きることができる。

なぜなら、わたしの好きになる人はみな、本当にシンプルにひとつのものに打ち込み、形を成している人だからだ。

たぶん、この好きはかなわないだろうし、かなうことが目的でもないんだろう。

時折訪れるこれは、片思いではなく、ただひたすらに違う視点からじぶんと向き合い、まったく違うところを耕すために必要な出会いなんだろう。

一生懸命に意味を考えて、出会いと別れに希望を見出して、でもときどきやっぱりやるせなすぎて、必ず良い人間になろうと誓うことになる。

必ず、必ず。

それは良い感情ではない。

いうならばなにくそ精神だ。

今のじぶんに興味を持ってもらえなかったということは、今のじぶんはそれだけの純度だったということ。

必ず、必ず良い人間になって、絶対びっくりさせてやるんだ、と誓うたびに、ひとつの片思いが終わっていく。

何度も考えて納得させて、涙を流して、また日常を歩もうとする、じぶんの感じてるものを相手は感じていない。ならば仕方がないのだ。

ひとりよがりでは、届かない。

腹が立つ、こんなに好きになれて嬉しいだなんて思えない、腹が立って仕方がない。わたしのなかから出て行って欲しい。

でも、そのために告白だの何だの手法をとるのは非常にナンセンスで、そんな真似をするくらいなら、この苛立ちを抱えたまま、より良い人間になるために日々を生きる方がずっといい。

出会えてよかったけど、本当に嫌いだ。

はやく、恋愛の刷り込みをといて、これは恋だと認識しない状態をつくりたい。もう、味わいたくない。

よりよく生きるためのきっかけにすぎないと、そう涼やかにやり過ごしたい。

もう、好きな人なんかほしくない、心も揺らされたくない、わたしはわたしで満たされていたい。

思う存分それを味わってからようやく誰かと生きられる自分になれると思うのだ。今はまだ足りないと誰よりも自分がよくわかっているから、好きな人ができるたび、こんなに悲しく、ひどい気持ちになる。

今だって、前だって、時が癒してくれるのを待つしかないのだ。ばかやろうと呟きながら歩き続けるしかないのだ。

ばかやろう。

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割れちゃったー〜