懐かしのユーミンを聴きながら、風に髪を撫でられる。
助手席って大好きだな、隣の人の踏むアクセルによって景色がどんどん変わっていく。
話はとりとめもなく移り変わり、言葉によって形をもたらされた感情たちはいつの間にかはるか遠く後方へ。
今、好きだと思うひとに、今好きだと言える幸福を噛みしめる。
しばらく前は、好きと性的なことが絡みついているように思えてうまくいかないことが多かったのだけれども、最近はそれもすっかり解れてずいぶん生きやすくなった。
好きだったら触りたい、好きだったらセックスがしたい、好きだったら、、、と、そんなの後付けの刷り込みでしかないなと思う。
入れて出してはいおしまいよりも、もっともっと楽しい関係がこの世界にはたくさんある。
触れることについては特に意味もなく、まっさらな好きを表す手段としてよく用いていたような気がする。
だけれども、これもまた最近の変化だけれども、不必要なスキンシップは不必要だなと結論づけた。
湧き出て止まらない気持ちを表現するには目を合わせるので十分だ。伝わるひとには伝わるし、伝わらないひとには伝わらなくていい。
触れることは、触れられることへの許可ではない。
それはあくまでじぶんの思いでしかなく、触れられた相手からするとそうは思えないのだろうと思わされる経験は、あわせていくつかの人間関係をさらっていった。
今日も一度それに似た出来事があったので、もう腹をくくって隙をなくそうと決めた。
今まではどこか決めかねていたのだけれども、そう決めてから足取りが軽いので決められてよかったと思っている。
好きを伝えるには目を合わせるだけで十分だ。そのうえで、ご縁があったひとに、伝えることがゆるされるひとに沢山沢山言葉を渡したい。
触れたいと思うひとには触れたい。みんなに触れない分、その喜びは大きくなりそうな予感。
セクシュアリティが複雑なグラデーションであるように、好きという言葉の中身も非常にカラフル。
微細な違いや、感覚の移り変わりをきちんと感じて、どんどん進んでいきたい。
隣で一緒に感じてくれてありがとうと、素敵なひとに思う。今のわたしで隣にいられてとても嬉しい、美しいひと。