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色っぽい

藤村先生のいる非電化工房に通いはじめて、2ヶ月の時が経った。

前々回がはじめての講座、前回が二回目の講座。

様々なことを教えてもらっているんだけれども、言葉を通して学ぶだけではなく、姿を通して学んでいることがある。

そのひとつが「色気」なんだと思っている。

色気、色っぽいかどうか。

以前のわたしであれば、色っぽい、色気という言葉から連想されるのはいわゆるマリリン・モンローや浴衣のうなじ的なセクシーさだった。

その言葉の概念がぐっと広がり深みを持ったものになったのは、おそらく先生のせいだろう。

前々回の講座でわたしは黒い手帳にボールペンでメモをとった。話がすすめばすすむほど夢中になり後から読み返したらナンノコッチャな文字もたくさんあった。 

前回の講座、手帳をまんまと忘れたわたしは、珍しくパソコンでメモを取った。タ、タ、タ、タ、先生の言葉の邪魔にならないよう最低限のタイピング音で。

でもたまらなく嫌になった。

何について嫌と感じたのかはその瞬間ではわからず、そのコマが終わったあと、次のコマからはいただいた紙に借りたボールペンでメモを取りはじめてから理解した。

色気がない。

パソコンでメモを取ることが色気がないというわけではない。

あのシーンで、沖縄から栃木へと向かい到着した非電化工房、先生のお家のなかで先生を前にしてパソコンでメモを取るのは色気がないのだ。

ボールペンから伝わる紙のテンション、字のカタチが気持ちに合わせて変わること、いろんな要因が「色っぽさ」をつくりあげていく。 

色気っていったいなんだろう、色っぽいってどういうことだろう。 

誰かの気をひくためではなく、誰かの欲望を掻き立てるためではなく、ただじぶんのために「色っぽく」あるというのはどういうことなんだろう。

でもどういうわけだか、新しくじぶんの人生に登場した「色っぽいかどうか」という行動指針を、わたしはとても気に入っている。

色っぽいか、色っぽくないか。

肝要なのは、for me という点だろう。ただただわたしのために。もしかしたら、only を加えても良いかも知れない。 

今まで好きになったひとたちを思い浮かべる。

みんなどこか色っぽい。それはもちろん真っ赤な口紅やズボンの裾からちらりと見える足首のような色っぽさではなく、存在自体に漂う色気なのだ。

存在自体に漂う色気、それは短い時間で身につけられるものではなく、毎日の暮らしのなかゆっくりとそのひとのものになるもの。

わたしはまさに今、それを纏おうとしているんだろうとじぶんについて観察している。

やっぱり人間として生きるのは面白い。

 

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