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23歳で手に入れた人生の道標

生きていくのって簡単だ、ご飯を食べて水を飲み適度に眠れば生きていける。でも、それだとなんか「生きている」気がしない。大切なひとたちはわたしに「たのしく生きよう」とときどき声をかけてくれる。あたたかなそれは人間がうまくやれないじぶんにとってなんだか道標のようなものだ。 

「たのしく生きる」

生きていくのは簡単だ。ある程度のお金を稼ぐことってどこも人不足な今超簡単。週に5日くらい一日8時間働けば、家賃も払えるし電気もガスも止まらないし水道だって大丈夫なくらいはある程度健康であれば誰でも稼げちゃう。

でも、それは「たのしく生きる」とは程遠い。

「たのしく生きる」

生きていくために仕事をするのは辛い。もちろんそれができるひともいるだろうし、仕事だけが生きる喜びではないひとが大勢いることもわかる。ただ、わたしはそういうタイプではないというだけで。

わたしはじぶんの一日のなかに少しでも「やりたくないこと」が入り込んでいるのは苦痛だ。「やりたくないこと」というのは辛いとかしんどいとかそういう意味での「やりたくない」ではなく、とてもシンプルに「やる意味がわからないこと」だ。

働くのがたのしい。楽ではない。頭もつかうし心もつかう。意思の力は消耗していくので、ちょっとした判断が粗雑にもなる。だけれども、それでも働くのがとてもたのしい。働くために生きているし、「たのしく生きる」ために働いている。

わたしの今の暮らしのなかには「やる意味がわからないこと」はひとつもない。ときどき改善の余地がある仕組みとは出会うけれども、わたしのポジションの優先順位は組織の改革よりも目先のタスクなので、ストレスはあれど大きすぎるストレスにはならない。

たとえば、自由な過ごし方のゆるされない時間と場所の拘束、これはわたしに向いていない。やる意味がわからない、というのはより正直に書くと「わたしが」という冠言葉がつく。「わたしが」やる意味のわからないこと、もっと大っぴらに言ってしまったら「この」わたしがやる意味のわからないことである。

ボルダリングジムの仕事は12時間弱ジムのなかにいないといけない点ではしんどいのだけれど、過ごし方は超自由だ。そしてわたしは今ボルダリングに夢中だ。お金をいただきながら登れる、それだけで幸福、おなかいっぱい。

ボルダリングジムの仕事だけをしていたら、そこまでの愛ではないので、きっとボルダリングジムのお仕事のことを嫌いになってしまうと思う。

でも、幸いなことにいろいろな種類のお仕事を頂いているので、それぞれの仕事が組み合わさり「やりたくないこと」はほぼ発生しないような生活が完成している。

この暮らしが完成したのはつい最近のことだ、7月になってから始まり、リズムが整ったのは最近のこと。

そしてこの形が完成するまでのお給料の3倍弱のお金を今頂いている。

「金額」がほしかったら、たぶんもっと違う効率的な動き方もあるのかもしれない。だけれども、「たのしく生きる」ことを最優先においたとき「金額」という条件はかなり優先度が低い。

それにも関わらず、結果として今の生活のほうが資金が潤沢で、かつたのしいという状況は、一体どういうことだろう。

分析してしまうと簡単なこと。

めちゃくちゃ生産性が高いのだ。ストレスの質が違うし、それぞれのお仕事がお互いに良い影響を与え合っている。

もちろんまだまだ詰めが甘くいろいろやらかしているから、それは一回一回の失敗をちゃんと経験に変えて、次の段階へと進んでいきたい。

なんていうか、今の暮らしがとっても好きで、そして、この暮らしをつくっているすべての偶然や必然やその他もろもろのいろいろなことやひとや場所にモウレツな感謝がわく。

ちょっとずつちょっとずつ変わってきた。

来年の3月に若手コーディネーターのお仕事は終わるのだけれども、そしてときどきその後が不安になるんだけれど、この根本的な道標、「たのしく生きよう」を忘れなければ、わたしは大丈夫だと思う。

そして、大切なのは「わたしは大丈夫」は、そのまま目の前にいるたいせつなひとにも置き換わるということ。空間に伝染していくということ。

「たのしく生きよう」

楽ではないけれど、ときどきめげそうになるときもあるけど、でも、たのしく生きよう。ただそれだけを決めて生活している。

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