太陽の照ってるもと、そよそよと揺れる草のうえ、はだかのような格好で寝そべってページをめくる
頬撫でる風の優しいことよ、どこどこまでいくのだろう
人間の身体の皮をやぶって浮き上がり、一緒に流れてしまいたいと思うけれども、抱きあげてもらおうと近寄ってきた子どもの微笑みに負けて意識を戻す
なぜなぜこんなに悲しくて、なぜなぜこんなに愛おしいのか、何歳になったらこの思い終わるのだろう
ひとのなかにいれば様々な思いも湧き、好きになったり憎んだり、期待してみたり裏切られてみたり裏切ったり、でも根元に流れるお互いへの愛情というのを、頭のなかお花畑だと笑われても、たしかに感じて生きている
ひとのなかに生きず自然のなかに在ること、それはおそらく答えのようで答えではなく、たとえ答えだとしても今の段階で選ぶものではない
生きていくのは面白い、歳を重ねる喜びも知る、出会う子どもたちひとりひとりと縁を結び、これから先を想像しあっては笑う
どうしてそんな暗い顔をしているのと顔を覗き込まれても、説明なんかできやしない
言葉にしたところで、そんなものを抱えて生きてどうなるのと笑われてしまう
言葉なくわかってくれるのは小さな友人たちばかりで、これを言葉で説明しようとすると何かがずれて歪んでいく
物事にはタイミングがある
今感じていることと、今目の前にあるお仕事や機会たち、この二面を乖離させずに一体化させていく
注意深く注意深く重ねていく
版を刷る作業と似ているかもしれない
自らの手で削り模様を刻んだ板に、自らの選んだ色を塗りつけ、その上にぺらりと少し厚みのある紙を置く
サーッサーッと、重石を滑らす音がする
こんな感覚、小さい頃に置いてこられたらもっと何事もなく過ごせたのかもしれない、沖縄に来なければまた向き合うことはなかったのかもしれない
何事もなく競争のなか、自分なりに折り合いをつけ、それなりにやれたのかもしれない
でも、これがじぶんなのだから仕方がない
脳みそと身体と心
バランスよく上手につかいながら
何かを言い切ったり、じぶんの正義をひとに押し付け始めたら、じぶんの価値観が尖ってきた証拠だぞ!と叔父に習ったのを思い出す日
叔父にそう言わせた理由が今ならわかる
価値観は尖らせるものではなく広げていくものだ
隣の相手、またその隣、そのまた先へと枠をどんどんと広げていく
枠を広げる作業はときどき痛みを伴う
今までのじぶんのサイズには合わないものだったり、今までのじぶんの器とは形が異なるものだったり
痛みの種類は精神的であったり、身体的であったりさまざまだけれども
それと並行して、自然とスムーズに痛みなく大きさが広がっていくことも行われる、これが歳をとるということなのだろう
草のうえ寝そべれば、また同じ感覚がやってくるだろう
海のそば横たわれば、そこでもまた
だけれども、今はまだそのタイミングではないと今の状態が教えてくれるし、きっと人生のなか、そしてそう遠くはないうちにその状態は訪れるのだろう
その日が訪れるのをたのしみに今日も明日もひとのなかひととしての営みを重ねていく