やりたいことをやる
というのは、わりかし誰にでもできることだと思う
それができないと思い込んでいるときは、たいていまだじぶんのことを大切じゃないときなんだろうと、振り返ると思う
じぶんのことを無意識にいじめ続けているとき、こんなじぶんなんてと思ってるときは、別に食べるものも着るものも暮らす場所も、手の届く範囲での変化もじぶんにプレゼントしないことが多かった
そう、変化のプレゼントは手の届く範囲からでいいのだ、そこからだんだんといろいろなものが加速する
それをしていくうちに、ああじぶんはたくさんのことを我慢していたのだなとか、我慢していたからあのときじぶんらしく生きている人を攻撃したくなったのだなとか、いろいろなことがわかるようになった
もちろん、これはわたしの体験であるので、みんなには当てはまらないかもしれない
冒頭の言葉に戻るけれど、やりたいことをやる、というのはやっぱり簡単なことで、それをするかしないかはじぶんに委ねられていると思っている
だけれども最近感じるのは、本当にやりたいことをやりたい、とそう思う
本当にやりたいというのは、実にデリケートな欲求で、注意深く眺めて初めてその実体と出会えるもの
たとえばやりたいこととして本を出したいというのがあるとする、でもそこを眺め続けていると、本当に本である必要があるのか?つまり、誰かに何かを伝えたい、や、有名になりたい、不労所得がほしいなど、いろいろと分解できるものがでてくるわけだ
本当にやりたいこと、というのはそれに対してとても純粋なもの
わたし、ラートのパフォーマンスに関してはそうみたいだ
教室はみんな喜ぶだろうし儲かるだろうとも思うけど、そこにわたしの喜びは少ない
だからなんか進まない、頑張ればできてしまうけど、その頑張りはしんどい、身体的にも精神的にもしんどい
本当にやりたいこと、にまつわるしんどさはむしろ喜び、ドキドキと一緒にくる、そしてたいていうまくいく
というわけで、これからは、もっともっと本当にやりたいことに向けて生きていこうと、そういうことを思っているよ
軽やかに、身体いっぱいで