本質をつかめってよく言われる言葉だけれども、経験上、本質をつかむというのは一定の知識量と、瞬間的な直感によってもたらされるように思う
一定の知識量は定量的にこれくらいのデータ数と示せるものではない、便宜上の一定であり、尚且つこれは意識的な情報収集に拠らない
どちらかというと無意識、つまり潜在意識のなかに落ちている情報の数、打たれる点の数が重要だ
意識的な情報収集も有効だけれど、これが短期記憶の範疇のなかにある場合、あまり本質をつかむ過程には影響してこないような気がする
情報量が一定のラインをこえた頃、単純な刺激がきっかけとなり、丁寧に隠されている一見無関係だけれども関係のある出来事たちの間に一本の繋がりを見つける
意識的な情報収集による情報は、事実や出来事、その単体としての輝きが鮮明すぎて、他の何かと繋がりを持つだけの余裕を持たないように感じるけど、どうかな
月はそれ自体が明るくそこで完結していて、星のように星座を作らずとも眺めていて十二分に味わえるというようなこと
なんにせよ、繋がりを見つける、瞬間的に起きるそれこそが本質をつかむということではないかと思う
何か情報が羅列されているところに、わかりやすくコロンで説明された本質を受け身で享受したら、そこにあるのは発信者がそれが本質と思うことであって、本当の本質ではない
獲得が楽、身体的、精神的なコストが少ない情報からは、主語が明確な場合はその相手の思想、主語が不明な場合は架空の世間や一般、普通の思想のうえの"本質"をキャッチしがちなのかもしれない
そして、それが本質だと思ってしまうのは咀嚼せずに食べ物を口から入れてしまうようなもの、未消化の原因になったり、そもそも味わえたかもしれない喜びを逃す要因になる
(わたしは昨日まかないのミネストローネを急いで口に運んだ際、角切りされたにんじんを間違えてそのまま飲み込んでしまった、にんじん好きだから噛みたかった)
咀嚼をせずに情報を獲得してしまうことに慣れてしまうとなにが起きるかと、消化する力が弱まっていく
つまり、思考する力が弱くなる、思考する力が弱くなるというのは自分で意思を持つことができにくくなる、明確に意図ができないからである
そうなると、他者の価値観や、他者の考え方、もっといえば架空の主語を用いた誰かの考え方に身を染めてしまうことになる
架空の主語を用いる誰か自身が意識的であれ無意識的であれ、受け手が思考することができればそこには問題はない、いち情報としてしかそれは存在していないから
だけれども、もしも受け手に思考というプロセスが欠如していたら、それはいち情報ではなく、そのひとにとっての世間や普通、一般を構築し、その隠れた一般は、そのひとの人生観に影響をおよぼす
人生観に影響を及ぼすというのは、具体的に掘り下げていくと、働き方、暮らし方に影響を与えるということ
さらに細分化すれば、そのひとの行動に影響を与えられる、わかりやすい例でいえば消費や投票行動だろう
小さい頃からニュースやワイドショーのアナウンサーやレポーターが主語に「わたしたち」を使うのがすごく不思議だった
架空のわたしたち
架空のわたしたちを裏切る政治家、架空のわたしたちを楽にする家電、架空のわたしたちを苦しめる事件
政治家があくどいなら、あくどくない政治家を育てればいい
育つ仕組みがないのなら環境を整えればいい
環境を整える力がないのなら、環境を整える力のある人に協力したらいい
文句を拡散して不満を煽り、ストレスの種を蒔くことになんの意味があるのだろう
と、幼いなりにわりと真剣に考えていた
(それはやがて大学で政治学を学ぶ理由になったのだけれどこれはまた別の話)
架空のわたしたちを用いる場合、そこには架空のわたしたちがいることにメリットがあるひとがいる
ストレスの種は、ストレス解消という収穫を待つ、そして、多くの場合、ストレスの種が蒔かれる際、そこには丁寧にストレス解消の方法が用意される
(何百年もこの構図変わってないってすげーって世界史の授業のとき思ったよね)
ここに行き着いた時に、えーーーそんなのやだ〜〜〜って思って、しかも、浅はかで衝動的に生きているじぶんに思考力が足りているとは思えないので、ある癖づけを大学生活の後半で行っていた
なにを読むときも、それに括弧で主語をつけるのだ、なにを聞くときも、なにを見るときも同じように主語を明確にしていく
余裕のないときは、文末に、(とこのひとは考えている)と打った
この方法は、じぶんのなかに無意識に"コントロールして得したい誰か"をいれないために非常に有効であるが、期待していたその効果よりも更に有効なおまけ付きだった
人間関係がう〜〜〜〜んと楽ちんになったのだ!
文末に(、とこのひとは思っている、考えている)とつけるだけで、そのひととの間にハッキリと線を引き、その線はわたしを冷静にした
そうすると、相手の生きてきた人生、ジェネレーションの持つ流れ、そういうものからどのように発言の裏側にある価値観を育ててきたかを察するようになる
だいたいはジェネレーションによるところのすれ違いが主のような気がする、信じてきたもの、教わってきたもの、それを支えた時代背景が異なるのだから、考え方や感じ方目指すところに大きなズレがあるのは当たり前のこと
ひとつ整理するための軸を持つだけで、そのひとがたとえ良心から発しているメッセージであっても、心のなかでNO thank youを唱えられる余裕ができる
そうすると相手にわかってもらわねば!とか説得せねば!という相手へと向かうアグレッシブな思いや、なんで自分はダメなんだ!変わらなきゃ!という自分へと向かうアグレッシブな思いがなくなる
結果として、人間関係の悩みってほっとんどなくなる、こうなってくるとあとはもう生理的な要因で好き嫌いとか、得意不得意がでてくるだけなので、それは笑ってやりすごせる
本質をつかむ、という言葉から、洗脳されないために、とか、人間関係のコツ、まで派生した考え事だった
最後にこれは身体的に思うことだけど、本質を掴め!と何度も何度も圧をかけるタイプのひとは、明確に感じ取ってほしい本質を用意している場合が多い
危険!とレッテルを貼るようにしてる
だいたいそういうひとって、とっても言葉が強く、わたしのようなひょろひょろは引っ張られやすい
本質は、人の数だけあればいい
そのひとが本質だと理解したことが本質であり、他人が覆してよい余地はない
よい批判は、自分の出した答えを省みるよいきっかけになる
否定と批判は違う
この考え事はなんだか自分にとって重要で、こころのなかにある棚に美しく並べては、ときどき取り出して磨いてみる
本質とはなにか
本質をつかむとは
なんであれ、他人の言葉を無咀嚼で身体に入れることは一生したくねーなと、不良みたいな気分で思うのである
それがたとえ自分に不利になったとしても、それを放棄してしまったら、やっぱり自分が自分で生きる意味がなくなってしまうのだ