どのように働き、どのような家に住み、なにを身に纏い、なにを食べ、なにを飲み、誰と過ごすのか。
その選択の出発点を、もう一度じぶんに戻したい。そう思ったから、もう一度働き方を変えることにした。
働き方を変えるというのは、収入を得る方法を変えるということであり、収入を得る方法を変えるというのは、暮らし方を変えるということだ。
暮らし方を変えるということは、何を着て何を食べ何を飲むかを変えるということだ。そして、それらの積み重ねは小さく大きな社会をつくる。
大切にしたいことを明確にすればするほど、問いはシンプルになっていく。
「どのように在りたいか、その未来図に沿って考えると今は心地よいのかどうか」
そして、思考を挟む暇もなく身体的に答えが出される。心地よいのであれば、そのまま過ごせばいい、否と答えが出るのであれば行動を変えれば良い。
誰かの人生を生きてはいないか。
たえずじぶんに問いかける。
誰かの人生を生きてはいないか。
そして、その誰かの人生を生きていることに無自覚ではないか、じぶんに突きつける。
「誰か」の皮を借りることで、じぶんを生きることを放棄していないだろうか、たえずじぶんと対話する。
働き方を変える。
組織に属することで能力が発揮されやすくなるひとも大勢いる。ひとりで動くことがそれにあたるひともいれば、少人数が適しているひともいる。
暮らし方だって、人の愛し方だって、ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ同じことなのだ。
海のそばが心地よいひともいれば、山のなかが心地よいひともいる。
ビル街を好むひともいれば、家を持たないことを選ぶひともいる。
大切なのは、選択の出発点がどこにあるかということなのだと思う。
「誰か」が出発点にあるのなら、そこにじぶんが生きている意味はあるのだろうかと疑問を抱く。
「誰か」を出発点に置くことをじぶんが決めているのなら話は別だ、でもそうだとしたら出発点はじぶんだ。
その次点が「誰か」であり、表面をみたときに「誰か」のためであっても、それはじぶんのためである。
じぶんを生きているか。
たえずじぶんにその質問を投げかけるのは、生きていくためだ。
わたしがわたしでなくてもいいのなら、そこにわたしが生きる意味はあるのだろうか。
生命を維持するのだけではやりきれない、いのちというのはそんなものではない、と思う。
わたしがわたしであること。
それを知るために日々を重ねること。
だから、今日も、昨日も、明日も、わたしはわたしと話をするのだ。
「どう在りたい?」と。
どのように働き、どこに暮らし、何を身につけ、何を食べ、何を飲み、誰といたい?
妥協せずに答えと向き合い、行動をひとつひとつ重ねていく。
手に負えないことは、誰かにヘルプを頼みながら。
このような生き方をスタートしたきっかけは「ナリワイ」について書かれた一冊の本だった。
この本を書いたひとのお師匠さんにあたる藤村靖之さんの講演会を沖縄で開催することになった。
藤村先生のいう「月3万円の仕事をみずから生み出し、それを重ねて持つことで生活する」という暮らし方がとても好きだ。
(わたしはそういうタイプだった、ということ)
「すくなく働き、いっぱい幸せな生き方」 —『月3万円ビジネス』著者 藤村靖之講演会 | Peatix
じぶんを知るために、さまざまなタイプの情報を摂取することはとても効率的だと思う。
情報に触れたとき、そこに違和感があるのなら、もうそれはとても貴重なデータだ。ちなみに違和感は生のほうが気付きやすい。生身の人間からもたらされる情報量はとんでもなく多い。
声、顔、身振り手振り、まわりにいるひとや空気、身につけているものの雰囲気、そして話の内容、そこにはオンラインや間接的に知る情報にはないものがある。
だからこそ、見逃しがちな違和感も、よくもわるくもたくさん感じられる。違和感にはポジティブネガティブ両方のものがあるが、その陰陽はさして重要ではない。
なぜ違和感があるのか、どこに感じたのか、それはなぜなのか、丁寧に掘り下げていく。
その先により輝く「じぶんらしさ」を見つける。
それが立派か立派でないかなどどうでもいい、誰にも褒められずとも、そこにある「じぶんらしさ」を静かに抱きしめるのだ。
わたしがわたしであること。
どんなにみすぼらしく、惨めで、きたならしい「理想」であったとしても、それがわたしが出した答えなら、それはとても尊く、その答えだけで生きていく意味を見出せる。
明日も明日とて、わたしはわたしに問いかけ続ける。どう在りたい?どう生きたい?どのように働き、何を身につけ、何を食べ、何を飲み、誰といたい?
実現できる範囲で実現していく、その先にきっともっと自由になったじぶんがいると信じながら。