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祈り、祈られる

ひとを抱きしめながら、手の甲を撫でる。

なぜそうしたのかはわからなかったけれど、涙を流す相手を見て、すべきだからしたのだなと理解する。

また別のひとを抱きしめる。胸がびりびりに破けてしまったような、そんな痛みを抱きながら、背中と胸の両方に手を当てる。

わたしも同じように手当てをしてもらったことが何度もあったのだ、懐かしく思い出す。

手をあてて、手当て。

というのは、うたを教えてくれた先生のうたのなかにでてくる言葉だけれども、本当にその通りだと今日実感した。

人間をこわいと思うから、ひとと触れることがこわかったけど、あなたに抱きしめられるのは嫌じゃなかった、安心した、と言われた。

人間がこわいのではなく、目の前にいる相手が豹変するという事実がこわいのだと聞こえたし、そのこわさをわたしはよく知っている。

未だに親しいひとが次の瞬間には、と頭の中でシミュレーションするくらいには染みついている。しかし、そのシミュレーションさえも、わたしが必要以上に傷つかないようにという身体的な気遣いからされる無意識的な習慣なので、最近は特に気にも留めない。

そして、それが過ぎ去った後、安堵とともに、目の前にいる親しい相手に、より好きだと伝えたくなる。会話の内容も言葉も違えど、好きだとその言葉に色を乗せて話をする。とても心地よい時間である。

だからわたしは、あれだけ傷ついてよかったと思っている。そして、誰かを傷つけてよかったとも思っている。

というか、過去はタイムスリップして、変えられるわけでもなし、とことん味わったのち解釈を変えていく方法しか、その呪縛から解かれる術はないのではないかと思う。

目の前の今を生きることから目を背けるために、刺激の強かった過去を何度もリプレイするよりも、しっかりと一度感じ、意味付けを行い、誰かにそれをシェアすることでアウトプットし、じぶんの本当の望みと向き合うことがより面白いと感じる。

、と思うようになったのは、20歳を終え、数年を経て、さまざまな繋がりを得たなかで自然と気づいたら。

どうとでも生きられる、身につけた知識に縛られ自分自身を裁き続けることは恐ろしく無意味だ、あなたのことを大切に思うひとのなかにそんなことを望む人は誰もいない。

わたしのことを大切に思うひと、を想像すると、どのようにあるのが心地よいのかというのは非常にわかりやすい。この問いかけは一見人生の主人公であることを放棄しているようにも見えるけれどもそうではない。

でもこれはまだ言語化しづらい。口語的なコミュニケーションのなかでは、簡単に表現できるけれど。。

とにもかくにも、どのように生きるかは選べるということだ。生まれ落ちた瞬間から、血の繋がった家族、血縁はないけれども絆のある仲間、一瞬を共有するために出会った友人たち、さまざまな関係のなか、生きてきて、生きていく。

同じ景色を見れる回数は減っていっても、心が離れるわけではない。共有したものは栄養になり、わたしの血となり肉となりずっと共にある。

いつも、共にある。遠く離れていてもあなたのために祈ると、大切なひとが言葉をくれた。嬉しくて嬉しくて、たとえそのひとがわたしのために祈ることをやめたとしても、わたしはそのひとのその言葉を一生涯忘れないだろうと、それくらい真心のこもった言葉だった。

わたしも祈る。ふとしたときに誰かを思い出しそのひとを心に置く。好きだった人もいれば嫌いな人もいる。祈るのと念を飛ばすのとは紙一重なので注意深く行う。

でも、明確に違うのは、祈りは誰かを対象に祈ったとしても、それが全体に向けたものになるという点であろう。

誰かの幸福を、誰かの健康を祈るとき、その祈りが実現されるためには、たくさんの出来事が数珠のように連らなければ実現し得ない。

つまり、誰かについて祈った瞬間、それはすべてへの祈りになり、その過程というのは、地球について想いを馳せることがやがて宇宙について拡大していく様子と非常に似ているようにも感じる。

なんにせよ、念を飛ばすときはそこに執着があり、じぶんが登場したいという強いしがみつきがある。なんとしてでも感というか、要するに鬱陶しいのだ。

祈りというのは、もっと簡単なもので、すっとしていて、まっさらだ。だからなんだという話ではない。ただ、そういうものだという話。