「子どもといるとき、ぴたっとはまってみえる」
大人といるときよりも自然ねと、言葉をもらう。
しばらく胸にその言葉を抱く。
大人と子ども。
体のサイズ、年齢、経験値、何で分けよう。
その境界線をどこと定めよう。
小さい友人たちは、わたしを「大人」とは思っていない。
ふたつか、みっつ年上の友人として接してくれる。
食べものを分け、飲みものを分け、話をする。
問いを投げかければ、しっかりと答えがもどってくる。
大人と子ども。
愛おしい、小さい友人。
彼らはわたしを誤解しないし、そのままで取り扱ってくれる。
走っても、笑っても、泣いても、怒っても。
黙り込んでも、突然寝転んでも。
新しい遊びと思い、真似をする子もいれば。
呆れて放ってどこかへいく子もいる。
大人と子ども。
母と子になると、また違う距離感がそこにはあるのだろう。
今のところはまだ、その予定もなく、ただただ友人関係のみ。
大人が嫌いなわけじゃない。
むしろ、難しいやりとりを経たのちに真心をもらうとき、とても嬉しい。
真心を渡すと、真心が返ってくる。
大人と子ども。
大人と子ども、その境目はどこにある。
いらない価値観やしがらみを身体にまとい、前を向くふりをする。
されども幸せになどなれやしない。
どこにも生きていないのだから。
大人と子ども。
境目などどこにもない。
「大人」と呼ばれるそれも、「子ども」と呼ばれるそれも。
社会の中で生きているうち、否が応でもじぶんのなかに染み込んでいく。
マーブル模様に溶け合うそれらを「性格」と呼ぶこともある。
境目などどこにもない。
決めるのはいつだってじぶんであり、目の前に対峙する誰か。
ただまっすぐにその人の前に在ること以外に何もいらない。
そのためには、ただまっすぐじぶんと向かい合う毎日が必要。
それもできないのに、誰かと向き合うのは骨が折れる。
骨折り損の~くたびれ儲け~♪である。
(そんな歌はないけど。。)
今日もよく生きた。
大声をあげて笑い、全力で駆け回り、芝生に寝転び、海を眺めた。
遠くにいるひとを想い、近くにいるひとに愛を伝えた。
大人と子ども。
境界線なんて、あるようでどこにもない。
あなたとわたしの間にも、境界線なんてどこにもないのだ。
好きになれなくても、嫌いになれなくても。
毎日繰り返しこころのなかで名前をなぞっていても。
脳みその奥底の忘却の海のなかに名前が落ちていても。
わたしとあなたの間には、境界線はないのだ。
あなたを通してわたしはわたしを知り。
わたしを通してあなたはあなたを知る。
どこまでいっても実は交わることのない。
だけれどもどこか同質的な。
とはいえ本当のところを知るのには、まだ早すぎる。
身体というやんわりとした線を保つ今は、知らなくていい。
眠っている間、重たい身体を抜けだす真夜中に。
わたしはきっとそれをもっとリアルに体感している。
境界線なんてどこにもない。
この一文で、これだけ心が踊るのはなぜ?
そして、そんな世界で唯一わたしをわたしたらしめる、
この身体が、こんなにもやわらかくたくましいのは、なぜ。